エッセイ・コラム
ことば探偵 金田一京助の秘密 第2回
郷原宏:著
この言葉の意味、なんだっけなあ……そんな時に使うのが国語辞典ですが、どんな人が作ったのでしょう。国語辞典編集の先駆者にして大家となった金田一京助の生涯をたどる知的好奇心に満ちた評伝。
第三章 花明かりの時
- 明治29年(1896)春、金田一京助は盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)を卒業して、岩手県尋常中学校(現在の県立盛岡第一高校)に入学した。この学校は、学制改革にともなってめまぐるしく校名が変わったが、地元では一貫して盛岡中学、略して盛中(せいちゆう)と呼ばれた。
- 入学式の当日、新入生200名は運動場に整列させられ、背の高い順に甲乙丙丁の4組に分けられた。甲組は「デカ組」または「ノッポ組」、丁組は「チビ組」と呼ばれた。小柄な京助はチビ組だった。ちなみに2年後に入学した石川一(啄木)もチビ組である。チビ組は体こそ小さかったが、のちに「大物」化する逸材がそろっていた。
- 及川古志郎は越後長岡の病院長の息子だった。海軍志望の及川は盛中きっての文学青年でもあった。実家が裕福で仕送りが潤沢だったので、盛岡の書店に入荷する文芸雑誌をすべて買い集め、自分でも読み、周囲の者にも回覧させた。2年後に自分の主宰する海軍志願者グループ「修養会」に入会した石川一(啄木)を野村長一に紹介し、野村はその場で石川の書いた「ものすごく下手くそな新体詩」を添削してやった。
- 及川はまた石川一に与謝野鉄幹の歌集『東西南北』と『天地玄黄』、土井晩翠の詩集『天地有情』を貸し与え、鉄幹の新刊歌集『相聞』をプレゼントした。そしてこの新入生が短歌に興味を示し始めると、「短歌をやるなら金田一京助に教わるといい」といった。つまり、及川は石川啄木の最初の文学指南役だったことになる。
(2022年3月号 小説推理 colorful.futabanet)
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