〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木が願った戦争のない平和な世界」

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ニリンソウ

郷土の歌人 啄木しのぶ 盛岡

  • 盛岡市出身の歌人石川啄木の没後110年となった13日、同市渋民の宝徳寺(遊座芳匡住職)で第111回啄木忌法要(実行委主催)が営まれた。
    新型コロナウイルス禍のため、関係者20人のみ参列。福田稔実行委員長が「啄木が願った戦争のない平和な世界が来ることを信じつつ、啄木の歌から何かを学び取ってほしい」とあいさつした。
  • 参列者は遺影が飾られた祭壇に焼香して手を合わせ、郷土の歌人をしのんだ。
  • 29日午前10時からは、同市渋民の石川啄木記念館敷地内にあり、啄木一家が暮らした旧斉藤家でレコード鑑賞会が開かれる。参加無料で、定員はない。

(2022-04-14 岩手日報

 

 

 

啄木は前に進む力を持っている!

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グミ

啄木没後110年 浮かびあがる魅力の大きさ

13日は、岩手出身の石川啄木の没後110年の節目だった。現代を生きる人たちに、啄木はどう響いているのか。

  • 岩手日報発行の「啄木 うたの風景」によると、各地に歌碑や詩碑、記念碑が建てられ、岩手で96カ所、青森5カ所、秋田1カ所などが確認されている。啄木の母・カツの兄で伯父である葛原対月(かつらはらたいげつ)が住職を務めた常光寺(青森県野辺地町)の近くの公園には歌碑があり、母方の曽祖母が生まれた秋田県鹿角市の市役所の前には詩碑がある。

 

  • 一方、啄木は活発な評論活動もしていた。だが、短歌ほど知られていない。
    「啄木は評論でも現代に通じるものを書き残した」そう語るのは、啄木や宮沢賢治などの東北の文学を研究する盛岡大文学部の塩谷昌弘准教授だ。若くして亡くなる1年半ほど前に書いた「時代閉塞(へいそく)の現状」という評論がある。塩谷さんはこれについて「啄木の現実を見る目が表れている」と指摘する。
  • さらに塩谷さんは「興味深い啄木像を描き出している」と、ある小説を挙げた。昨年急逝したジャーナリストで小説家の外岡秀俊さんの小説「北帰行」だ。
    同作は「時代閉塞の現状」について触れている。作中では、啄木には叙情性と批評性があると言及。それが一体となった作品として、主人公が「時代閉塞の現状」を挙げている。
  • 「短歌か評論か、ではない啄木像。彼は短い生涯で幅広い分野の作品を書き残した。その中には今後深められたであろう考えもあった。つまり、彼は未完成のまま亡くなった」と塩谷さん。その上で、こう述べる。「だからこそ、様々な角度から探究し、啄木像を常に更新していかなければならないと考えています」(唐沢俊介)

 

ギャラリートーク

  • 盛岡市渋民の石川啄木記念館では13日、啄木の没後110年に合わせ、学芸員によるギャラリートークが開かれた。十数人が参加。同館で開催中の収蔵資料展「啄木と渋民~小説『鳥影』より~」の展示をもとに、啄木の青春期の葛藤や創作の舞台と渋民との関係などが解説された。
  • 学芸員の藤田麗さん(23)は「人はそれぞれ異なる背景を持っているのに、啄木は短歌という限られた詩型で、人々を魅了していく」と説明。「特に前に進む力を持っていると感じる」と話した。(三浦英之)

(2022-04-15 朝日新聞

 

 

 

 

 

北畠さん「今後は研究に専念 啄木の資料を掘り起こしたい」と宣言

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キクザキイチゲ

啄木語り500回超、釧路の北畠さん「最後の講座」 講師活動に区切り

  • 歌人石川啄木(1886~1912年)の研究者で国際啄木学会北海道支部長の北畠立朴(りゅうぼく)さん(81)=釧路市=の講演会「人生最後の啄木講座」(釧路文学館主催)が13日、市中央図書館で開かれた。啄木没後110年に当たるこの日、講師活動に区切りをつけた北畠さんは、約50人を前に「今後は研究に専念し、後世に役立つ啄木の資料を掘り起こしたい」と宣言した。
  • 北畠さんは22歳で釧路時代の啄木の研究を始め、1993年から500本を超す講座の講師を務めた。

(2022-04-14 北海道新聞

 

 

 

 

啄木の歌・評論 現代にも通じる

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フヨウ

時代を超える 啄木の魅力

 26歳で病没後110年

13日は、岩手出身の石川啄木の没後110年目の節目だった。昨年12月末に陸前高田市で歌碑の再建が行われるなど、歌人として知られる啄木。一方で、社会に対して積極的な評論活動をしていたことも伝わっている。現代を生きる人たちに、啄木はどう響いているのか。

若者に響く自由な歌

  • 県立盛岡第三高の文芸部員、岩崎野乃花さん。「啄木は情景描写が巧み。歌の中に動作を入れ込み、読者に心情を伝えるのもうまい」。
    同じく部員の嶋栞さん。「自分のことを『なまけ者』と言い、ダメな部分もさらけ出しているので大勢が共感できる」。
    同じく部員の西澤あづきさん。「啄木の歌で『たんたらたらたんたらたらと 雨滴(あまだれ)が……』と歌い、短い言葉で表現する必要がある短歌で、大胆に擬音を使う。『こんなに自由でいいんだ』と思った」。

現代にも通じる評論

  • 「啄木は評論でも現代に通じるものを書き残した」そう語るのは啄木や宮沢賢治などの東北の文学を研究する盛岡大文学部の塩谷昌弘准教授だ。
  • 若くして亡くなる1年半ほど前に書いた「時代閉塞の現状」という評論がある。塩谷さんはこれについて「啄木の現実を見る目が表れている」と指摘する。
  • 日本が欧米列強に追いつこうと近代化に邁進した時代を生きた啄木。韓国併合など帝国主義化が進む中、「彼は社会に生じたゆがみを敏感に感じ取り、表現した」と評する。

(2022-04-14 朝日新聞

 

 

 

啄木歌碑第一号 「天才詩人を古里に迎える」との思いを込めて

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ユキヤナギ

啄木愛 刻み1世紀

 顕彰活動の源流に

  • 石川啄木の没後10年の1922(大正11)年4月、盛岡市渋民に建てられた全国第1号の啄木歌碑が13日、建立100年の節目を迎えた。失意のままに生涯を閉じ、函館に眠る天才詩人を「古里に迎える」との思いを込め、地元の青年団消防団が中心となって汗を流し、顕彰活動の源流となった。近年は新型コロナウイルス禍も重なり、足を運ぶ人も少なくなったが、今も大切に守る関係者は「歌碑の意義を再認識し、啄木の望郷の思いに触れてほしい」と願う。
  • 「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」。望郷の代表歌を刻んだ歌碑が建つ渋民公園。西に岩手山、東に姫神山を望み、啄木の心情を感じ取れるまたとない場所だ。
  • 地元の青年団消防団が中心となり、歌碑の花こう岩の巨石をそりに載せ、建立地まで約2キロを3日かけて引き、啄木の命日の4月13日に建立された。

(2022年4月13日 岩手日報

 

 

 

 

啄木忌 岩手県盛岡市

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コデマリ

啄木忌 ゆかりの寺でしのぶ 石川啄木の命日<岩手・盛岡市

岩手めんこいテレビ 2022-04-13

 


 

没後110年をしのぶ 啄木忌法要【岩手・盛岡市

岩手朝日テレビ 2022-04-13




岩手県盛岡市 歌人石川啄木の没後110年 啄木忌法要

日テレNEWS 2022-04-14

 

 

 

啄木忌 北海道函館市

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ノイバラ

啄木忌思いはせ 没後110年

読売新聞オンライン 2022-04-13

 


啄木の命日の13日、111回忌法要、関係者のみで挙行【函館】

北海道ニュースリンク 2022-04-14

http://www.hokkaido-nl.jp/article/25039

 

 

 

啄木忌法要 渋民の宝徳寺にて

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ミミナグサ

岩手県盛岡市 歌人石川啄木の没後110年 啄木忌法要

  • 岩手が生んだ歌人石川啄木が亡くなってから13日で110年となり、幼い頃を過ごした盛岡市渋民の寺で法要が営まれた。歌集『一握の砂』『悲しき玩具』などで知られる啄木は、110年前、1912年の4月13日に26歳の短い生涯を閉じた。
  • 岩手山を望む現在の渋民公園に建つ啄木の歌碑。地元の青年を中心に、啄木の没後10年・1922年に全国で最初に建てられたものだ。13日で建立100年を迎え、今も大切に守る関係者は、改めて望郷の思いを感じていた。(石川啄木記念館 森義真館長)「全国に185基ほどの啄木歌碑が建てられているが、その第1号ということで、啄木顕彰のシンボルとしてみんなが眺めてくれるのは感慨深いものがある」
  • 『啄木顕彰』の動きで建てられた石川啄木記念館は、13日、一日無料で公開され、29日には、啄木ゆかりの歌曲を聴く催しが開かれる。

(2022-04-13 テレビ岩手)

 

news.tvi.jp 

 

 

 

盛中(せいちゆう)の「チビ組」石川一(啄木)

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ハナモモとサクラ

エッセイ・コラム

ことば探偵 金田一京助の秘密 第2回

郷原宏:著

この言葉の意味、なんだっけなあ……そんな時に使うのが国語辞典ですが、どんな人が作ったのでしょう。国語辞典編集の先駆者にして大家となった金田一京助の生涯をたどる知的好奇心に満ちた評伝。

 

第三章 花明かりの時

  • 明治29年(1896)春、金田一京助は盛岡高等小学校(現在の盛岡市立下橋中学校)を卒業して、岩手県尋常中学校(現在の県立盛岡第一高校)に入学した。この学校は、学制改革にともなってめまぐるしく校名が変わったが、地元では一貫して盛岡中学、略して盛中(せいちゆう)と呼ばれた。
  • 入学式の当日、新入生200名は運動場に整列させられ、背の高い順に甲乙丙丁の4組に分けられた。甲組は「デカ組」または「ノッポ組」、丁組は「チビ組」と呼ばれた。小柄な京助はチビ組だった。ちなみに2年後に入学した石川一(啄木)もチビ組である。チビ組は体こそ小さかったが、のちに「大物」化する逸材がそろっていた。
  • 及川古志郎は越後長岡の病院長の息子だった。海軍志望の及川は盛中きっての文学青年でもあった。実家が裕福で仕送りが潤沢だったので、盛岡の書店に入荷する文芸雑誌をすべて買い集め、自分でも読み、周囲の者にも回覧させた。2年後に自分の主宰する海軍志願者グループ「修養会」に入会した石川一(啄木)を野村長一に紹介し、野村はその場で石川の書いた「ものすごく下手くそな新体詩」を添削してやった。
  • 及川はまた石川一に与謝野鉄幹の歌集『東西南北』と『天地玄黄』、土井晩翠の詩集『天地有情』を貸し与え、鉄幹の新刊歌集『相聞』をプレゼントした。そしてこの新入生が短歌に興味を示し始めると、「短歌をやるなら金田一京助に教わるといい」といった。つまり、及川は石川啄木の最初の文学指南役だったことになる。

(2022年3月号 小説推理 colorful.futabanet)

 

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啄木忌に移築正式調印「喜之床」明治村へ-1978年

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シダレザクラ

「喜之床」明治村へ移築のこと

  『石川啄木 愛とロマンと革命と』(著者 清水卯之助)より

 

Ⅲ 啄木の<東京>

 四 「喜之床」の二階

  • 啄木は明治42年(1909)6月から44年8月まで、「喜之床」という理髪店(現、バーバー・アライ)の二階に間借り生活をした。

 五 「喜之床」明治村

  • 関東大震災や戦災にも焼失せず、啄木旧居として東京では唯一つ生き残っていた本郷の床屋「喜之床」が、いよいよ、明治村入りすることになった。
  • 東京都の道路拡幅工事で、アライ理髪店の一角が取り払いになるのを機に、この際全部こわして残りの地所に四階建ての小じんまりしたビルを建て、そこで明治以来の家業を続けようとする「喜之床」四代目の当主新井光雄氏と、愛知県犬山の博物館明治村とのあいだで、譲渡契約がむすばれ去る4月13日正式調印にこぎつけた。明治時代の由緒ある文化財の保存につとめる明治村へ、この啄木旧居を加えようという計画である。啄木忌だったというのも奇縁である。
  • 犬山での復元は未定であるが、遠からぬ日に、明治村名所たる鴎外、漱石露伴などの文人旧居に、啄木の「喜之床」が仲間入りすることになるであろう。

  (「岩手日報」昭和53年4月26日)

 

  『石川啄木 愛とロマンと革命と』
   ・著者 清水卯之助
   ・発行 和泉書院 1990年