〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木さん 京助さんと一緒に写真を撮りませんか? 盛岡てがみ館

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アジサイ ワタボウシ

盛岡てがみ館

啄木と金田一モデルのキャラPR アニメ「啄木鳥探偵處」

  • 盛岡市の盛岡てがみ館で、同市出身の先人らが登場するミステリーアニメ「啄木鳥探偵處」のキャラクターパネルが設置されている。作品の主役である歌人石川啄木言語学者金田一京助が特大サイズで描かれており、話題を呼んでいる。
  • 同館では2人に関する書簡などを展示してその人となりや業績を紹介していることから、アニメ制作会社の許諾を得て、5月からパネルを設置。
  • 館内では1908(明治41)年に京助が友人に宛てた手紙を常設展示。上京し自身の下宿に飛び込んできた啄木と古里や友のことについて語り合っている様子や、啄木の将来の展望について思いをつづっている。佐々木章学芸員は「撮影自由なので、気軽に見に来てほしい」と話している。

(2020-07-07 岩手日日新聞)

 

啄木と金田一モデルのキャラPR アニメ「啄木鳥探偵處」 盛岡てがみ館 パネル設置|Iwanichi Online 岩手日日新聞社

「トウモロコシ=玉蜀黍 <2>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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玉蜀黍<2>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 


 

宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

 札幌の街の空氣がよくうつし出されてゐる。『しんとして幅廣き街』の一句で札幌の全体を云ひ盡してゐると僕は感じて讀んだ。それに『秋の夜』と『玉蜀黍の焼くるにほい』を配したので札幌と云ふ氣持がすつきりと出てゐる。札幌の何となく懐かしき思ひのする土地なる如くこの歌もなんとなく底懐かしい思ひのする歌である。

(遊座昭吾 編『ー 啄木と郁雨 ー なみだは重きものにしあるかな』 2010年 桜出版)

 


 

 この歌には鑑賞すべき大事なポイントが二つあると思われます。日記に記した「路幅広く人少な」い街を、「しんとして幅広き街」と表現している点、そして、秋の夜の「玉蜀黍のにほひ」と押さえ、北海道のもつ風土の匂いをうたっている点です。

 さらにその二つのポイントを押さえているのは「しんとして」ということばと、「焼くるにほひ」という、ともに静けさと鼻をつく匂いの感覚的情緒です。特にも玉蜀黍に醤油をつけて、それを焼いて食べる北海道独特の味わい方に、啄木はふるさとで食べた玉蜀黍の味をふまえた上で、強く心ひかれ、その匂いに詠嘆しているのです。

(遊座昭吾『啄木秀歌』 1991年 八重岳書房)

 

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 札幌の夜の風景を歌ったものだが、屋台で玉蜀黍を焼いて売る風景は今はどうなっているか知らぬが、私の居た頃にも見られた。北海道の風物詩と言える。啄木は初めてみたのであろうか、詩情をさそわれたに相違ない。

(井上信興『野口雨情そして啄木』 平成20年 渓水社

 



<生誕百年 石川啄木 明治とは何であったか>

 座談会「明治北海道と啄木」

     渡辺淳一・本林勝夫・司会 岩城之徳

渡辺淳一)・・・そういう意味で啄木は、北海道に対しては異国人で、しかも流浪というロマンチックな背景があって、筆が冴えた。

 「しんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍の焼くるにほひよ」
札幌がこれだけ近代化しても、駅を降りて、ちょっと秋口に、ビルのあいだのペエブメントを歩いても思い出す歌で、深々とした雰囲気はまさにこの歌の通りで、啄木はこういう情景描写は実にうまいんですね。だから僕は札幌に降り立って、札幌の町を小説に書こうとしても、こういうふうにうまく書かれちゃうとやられたという感じになっちまう。

(「國文學學燈社 昭和59年6月号)

 

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(つづく)

今年は中止 啄木学級「文の京講座」

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アジサイ アラモード

文京区 文化発信プロジェクト

 啄木学級 文の京講座

  • 令和2年度「啄木学級 文の京講座」は、新型コロナウイルスの影響を受けまして、参加者の安全と感染拡大防止を考慮いたしました結果、中止させていただくこととなりました。ご理解の程よろしくお願いいたします。

(2020-07-01 文京区役所)

 

文京区 啄木学級 文の京講座

記者時代 啄木は「10行取材して 100行も書いた」 

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アジサイ モナリザ

「並外れた表現力」「欠勤重ねた」 記者時代の啄木語る

  • 北畠さんは「釧路に来るまで新聞記者の経験はほぼないが、釧路新聞でも多くの記事を残した。文章の表現力も並外れている」と評価。一方で「実際の記者は100行分の取材をして10行を書くが、啄木は10行分しか取材しないのに100行も書いた」とし、表現が過大すぎる点を指摘した。

(釧路文学館が、26日まで開いている企画展「新聞記者・石川啄木」の関連イベントとして開催)

(2020-07-06 北海道新聞

 

「並外れた表現力」「欠勤重ねた」 記者時代の啄木語る 釧路で北畠さんら対談:北海道新聞 どうしん電子版

「龍馬」の名前が初めて愛称として入る 「入明駅」

高知市JR入明(いりあけ)駅 「志の龍馬像」立つ

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7月3日。雨の龍馬像除幕式。

 

観光列車「志国土佐 時代(とき)の夜明けのものがたり」が7月4日から運行開始するのに合わせたもの。

 

 

 

 

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入明駅」は、坂本龍馬生誕の地に近い。

 

 

 

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大きく両手を広げた坂本龍馬

像を作ったのは、造形家の平地正利さん。

 

入明駅」の愛称は、その名も「志(こころざし)の龍馬駅」。

台座を含め、像の高さは2.9メートルある。

 

○ 高知市の岡林一彦さんより、情報をいただきました。

「かの時に言いそびれたる大切の言葉は…」啄木

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アジサイ 天を仰いで

千の風になったあなたへつづる 言えなかった思いの数々

        阿部浩

 逝ってしまった人が、悲しむ生者に語りかける――名曲「千の風になって」は、北海道七飯町の静かな森の中で誕生した。

 「千の風になって」は、七飯町に住む作家新井満さんが訳詞・作曲した。大勢のアーティストによって歌われているが、中でも、テノール歌手秋川雅史さんののびやかな歌声でブレークし、広く知れわたることになった。

秋川さん「コンサートでは心を無にする」

 コンサートでは心を無にする。いまだに難しいですが。自分の人生の中でもいろんな大切な人との別れを経験したが、それを頭の中に描いてしまうとだめなんです。自分の思いが強ければ強いほど、お客さんとの間に「壁」ができてしまい、歌が届かない。いかに無になれるか。禅の境地ですね。

新井さん「大沼の森の風が作らせた」

 北海道駒ケ岳のふもとに広がる大沼湖畔の森の中に、私の家はあります。2000年夏のこと。作者不詳の英語詩を翻訳し、曲をつけたいと思っていました。ところが、どうしてもうまく訳せない。気分転換に飼い犬の「月子」を連れて外に出て、森の中を散策しながら大声で英語詩を朗読したんです。

 朗読が終わると、月子がおびえたような顔をしてほえた。次の瞬間、ザァーっと一陣の風が吹いてきました。私はそのときたしかに「風の姿」を見たような気がしたのです。

 「千の風になったあなたへ贈る手紙」コンクールでは、最終選考委員長も務めました。応募の手紙を何度も読み返しているうちに、共通する言葉があることに気づきました。「ごめんなさい」と「ありがとう」です。大切なあの人が元気なうちに、なぜこのひとことが言えなかったのだろう。そう悔やみながら手紙を書いているんです。

 「かの時に言いそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど」――啄木の短歌のように、言えなかったことが心の痛みとなって、謝罪と感謝の手紙を書かせるのだろうと思います。

 死とは終わりではなく、再生すること。二度と会えないと思っていた故人と、手紙の中で再会し、親しく対話ができる。だから、「千の風」になった人に手紙を書くと、うれしく懐かしい気分になり、元気さえ出てくるのでしょう。

(2020-07-03 朝日新聞

 

千の風になったあなたへつづる 言えなかった思いの数々:朝日新聞デジタル

「トウモロコシ=玉蜀黍 <1>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

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 玉蜀黍<1>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

玉蜀黍
     しんとして幅広き街の
     秋の夜の
     玉蜀黍の焼くるにほひよ

 


 

初出「一握の砂」

 しんと静まりかえった札幌の幅広い街の秋の夜の、玉蜀黍の焼けるにおいよ。

初出は歌集『一握の砂』。

 区画整然として幅の広い街路。そうした近代的な都市としての札幌の印象と、北海道の人がとうきび、またはとうきみと呼んで親しんでいる秋の味覚の玉蜀黍の醤油をつけて焼くひなびた北国の生活のにおいが、「しんとして」「秋の夜」という語に生かされている。

(岩城之徳・編「石川啄木必携」 1981年 學燈社

 



玉蜀黍 

 南米アンデス山麓原産のイネ科の一年草。大正初年に渡来し広く栽培される。高さ2~3mで茎は太く円筒形。茎頂の穂は、雄花の集合。イネ科には珍しい、雄花と雌花が別々につく雌雄異花で、画期的な品種改良に貢献した。雄花の受精機能を低下させた株に通常の株を並べて植え、風媒で異株間受精させることでよりすぐれた種子を得る。
 成熟した種実の色は白,黄~赤,赤褐,濃褐,暗紫など種々あり,中央がくぼんだ歯形や球形のものが多い。品種は馬歯(デントコーン),硬粒(フリントコーン),軟粒,甘味(スイートコーン,爆裂(ポップコーン),もちなどに大別。
 一般に温暖適雨の地を好む。種実はデンプンを多量に含み,甘味種は未熟種子を生食とするほか,乾燥種子は製粉してコーンフレークス,コーンミール,パンや菓子の原料とする。
 しかしトウモロコシは食用作物というよりむしろ飼料作物としてきわめて重要であり,農耕飼料として利用されるほか,青刈飼料として全世界的に栽培される。世界の畜産を支える作物ともいえる。胚からはトウモロコシ油(コーンオイル)がとれ食用,油脂工業用とする。
 雌花の花柱を日干しにしたものが、利尿薬として使われている。
 米国,中国,ブラジル,メキシコなどが主産地。和名唐唐黍はトウモロコシキビの略。元来唐黍すなわちモロコシキビは唐黍のことで、これに更に唐を加えてトウモロコシと称した。漢名玉蜀黍。トウキビともいう。

花言葉  財宝・富・豊富・同意・洗練

 



「札幌市中央区大通公園の啄木像と歌碑」
北海道内では三基目の啄木ブロンズ像が建てられた。・・最初の計画では右手にとうもろこしを持った啄木像になるはずであったが、いろいろな事情からはずすことになった。

(浅沼秀政『啄木文学碑紀行』 1996年 白ゆり)

 


 

 札幌の秋の夜を詠んだものです。明治四十年九月に札幌に到着した啄木は、その印象を「木立の都なり、秋風の郷なり、路幅広く人少なく」と日記に記しています。また「詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり」とも記しています。
 そんな啄木にとって、トウモロコシに醤油をつけて焼いたこうばしい香りも印象的だったことでしょう。

(啄木記念館『啄木歌ごよみ』 平成12年 石川啄木記念館)

 


 

 匂いもまた季節の表情である。どこかしらん、「玉蜀黍の焼く」匂いが漂い流れてきたのである。芳しいあのにおいが。匂いもまた土地の表情であるが、「辺土」に流離ってきた人のこころにしみ入るがごとき匂いは、人のこころの表情で、その土地に生活し、通り過ぎて行った人もまた、その土地に彩を添えるのである。

 「玉蜀黍の焼くるにほい」は、「しんとした幅広き街」の豊かな表情であって「にほひ」によって喚起され、深められる旅情がある。

(上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』 2001年 おうふう)

 


 

 啄木は札幌の碁盤目状の街路と、大いなる街のたたずまいを「幅広き街」と実感しているが、高等小学校と中学校の少年時代を旧盛岡城下で暮らした啄木にとって、あの狭い入りくんだ城下町の道路と比べて札幌の道路を広く感じたものであろう。昭和56年、「しんとして……」の歌碑と啄木像が大通公園に建立されているが、除幕は啄木の札幌入りを記念してこの年の9月14日に行われた。
 除幕式に出席した啄木の令孫石川玲児氏は先年、筆者に「私も、祖父啄木が下宿していた札幌駅北口付近に近い北大病院前に住んでいた」と手紙をくれたことがあった。啄木が住み、妻子が訪れ、実妹光子も札幌の鉄道管理局に勤務し、時をこえて戦後、令孫も住んだという札幌は、石川家の人びとにとって懐かしい土地である。

(好川之範『啄木の札幌放浪』 昭和61年 クマゲラBOOKS)

 



 ・・・札幌の「しんとして幅広き街」に「秋の夜」が訪れます。北海道では「とうもろこし」といわず「とうきび」といいますが、札幌の風物詩「とうきびうり」はすでに当時からありました。ただ、今とちがって当時のとうきび売りは焼くときタレを用いませんでした。したがって「焼くるにほひ」はとうきびの実そのものの焼けてはじめるこうばしいにおいです。このにおいをイメージして読んではじめて歌の世界=1907年(明40)秋の札幌の街に立てるのです。
 自然主義の作家として知られる岩野泡鳴が『放浪』という小説の中で啄木が行った二年後の札幌の秋の風物をこう描いています。

工場とはす交いになっている角に、葉の大きなイタヤもみじが立っている。その太い根もとに、焜爐の火を起して唐もろこしを焼き売りする爺さんがいる。店の道具と云っては、もろこしを入れた箱と焜爐とだけである。
・・渠(かれ)はもろこしの実が焼けて、ぷすぷすはじけるそのいいにおいを、昨夜、酔いごごちで珍らしく思った。

 まるで啄木の歌の名解説といったような一文です。タレは用いずに焼いていることも確認できます。

(近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』 2000年 吉川弘文館

 

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(つづく)


「ツツジ=躑躅」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-


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-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

躑躅

      わが庭の白き躑躅

      薄月の夜に

      折りゆきしことな忘れそ

 

 


 

初出「一握の砂」

 私の庭の白いつつじを、おぼろ月夜に折っていったことを決して忘れなさいますな。

 初出は歌集「一握の砂」。宝徳寺の裏庭での上野さめ子女教師との忘れがたい思い出を詠めるもの。

(岩城之徳・編「石川啄木必携」 1981年 學燈社

 

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躑躅

 ツツジツツジ属の低木~小高木。常緑のものと落葉のものがあり,花の大きさ,色はさまざまで,日本に40~50種が自生する。

 花の美しいものが多く,古くから栽培されている。分類のむずかしいグループで,円形鱗状毛の有無,花芽の位置,数,花芽の中の花の数,混芽の有無などによって分類されるが,例外も多い。

 春から夏にかけ、赤・白・紫・橙色などの大型の合弁花を開く。なおツツジ類の材は緻密(ちみつ)で細工物などにもされる。

静岡県 県花

花ことば  愛の喜び・情熱・節制・伝奇 ・初恋

 

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 明治37年の3月、上野さめ子は岩手師範学校女子部を卒業と同時に、渋民小学校に赴任した。そのころ、啄木は第一次の上京に失敗して帰郷、村人達からは「お寺のぶらり提灯」と陰口をたたかれながら、余念なく詩作に没頭し、詩作に倦むと、オルガンをひきに母校に出かける。

 さめ子と啄木は暇さえあれば、寺と学校とを往復して語り合った。(明治39年)4月、啄木も同校の教員となり、半年後、彼女が栄転するまで、啄木にとって校内唯一の話し相手だった。この歌は往年の彼女の姿を歌ったものである。

 啄木は彼女から、小説の素材にするためずいぶんたくさんの世間話を聞き出したらしい。

 明治39年8月27日 日記 「上野女史の話より取る」
『夏の夜。石の巻。北上川。美しき人あり。舟を浮ぶ。海に紫の電す。女は快哉を叫ぶ。岸に笛の音起る。それが河上の方へ遠くなる。又近くなる。一片舟あり、笛の音を載せて流れ来る。朧月夜。・・美しき人は月を賞める。笛を賞める。この一夜は忘れられぬと同行と語る。・・』

(吉田孤羊『啄木発見』 昭和47年 洋々社)

 

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 この「庭」は詩人が育った宝徳寺の裏山、昔は白つつじが一杯咲き誇っていたが、近頃行って見るとだいぶ少なくなっている。
モデルとなったのは、啄木の代用教員時代、一緒に教鞭をとった上野さめさんで、何か意味ありげな一首だが、生前上野さんは、「そんなこともあったかも知れませんが、はっきりした記憶がありません」ともらしていた。
 つつじの花言葉は、節制とか節慾を象徴しているというが、きちんとしたクリスチャンの上野さんには、まことにふさわしい取り合わせといってよかろう。


(吉田孤羊『歌人啄木』 昭和48年 洋々社)

 

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 「白き躑躅」を「薄月の夜」に手折って帰っていった女性のイメージが、こうした描写によって暗示的に描かれている。若い女性の匂いと楚々とした物腰、顔の表情までが薄月の春の景色の中に浮んで見える。

 この夜のことを、あなた、忘れないでくださいよ、とむすぶところに、ロマン的な香りを放つ物語の色を濃くする。

(上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』 2001年 おうふう)

 

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 「な忘れそ」(忘れないで下さいね)と呼びかけられているのは上野さめ子という小学校教師です。・・・この女性は、啄木が当時最先端の文学的話題をもち出すのをしっかりと受けとめられるほどに高い知性の持ち主でした。

 その年の五月三〇日に書いている小沢恒一宛書簡に「稿紙乱堆の中、牡丹と白躑躅の花瓶の下にこの文認め申候。目を放てば窓前満庭の翠色、池にのぞめるほうの木の若葉殊更に心も若やぐ趣きに候」とありますから、掲出歌はこの前後の思い出でしょう。

(近藤典彦『啄木短歌に時代を読む』 2000年 吉川弘文館

 

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 作歌は1910年(明治43)10月。『一握の砂』(明治43年12月刊)所収。

 さて、『一握の砂』は最初東雲堂から出版されました。この版は啄木が編集・割付をすべて自分でやりました。その際想像を絶する仕掛けを歌集全体に張りめぐらせました。最重要の仕掛けは「一ページ二首、見開き四首」という編集にありました。
 掲出歌は東雲堂版『一握の砂』では126−127ページの見開きの第三首目におかれています。
 その見開きの全体はつぎの四首です。

  わがために/なやめる魂をしづめよと/賛美歌うたふ人ありしかな
  あはれかの男のごときたましひよ/今は何処に/何を思ふや
  わが庭の白き躑躅を/薄月の夜に/折りゆきしことな忘れそ
  わが村に/初めてイエス・クリストの道を説きたる/若き女かな

 一首目。悩める魂を穏やかにしてあげようと、わたしのために賛美歌を歌ってくれた人があった。(はじめてここを読む人には「人」が男女どちらであるか分からない。)
 二首目。ああ、あの男のような魂よ、あの人は今どこに住み、何を思っているだろう。(ここではじめて「人」は女性であると分かる。しかも男優りな女性であると。)
 三首目で「男のごときたましひ」の人のイメージが一変します。その人は花を愛でる女性でした。帰りがけに、あの白い躑躅を手折っていいか、持って帰って部屋に飾りたい、と。ほのかに光る月の下でのことだった。そして詩人は思う。あのときのことをあなたも忘れないでください、と。
 四首目。以上三首を収束しつつ、その女性が当時の「わが村」には希有の「若き女」であったとうたいます。
見開き四首はみごとな起承転結の構成になっています。最後の歌の最後の行に「若い女かな」を持ってきた結句の妙。

「折りゆきし」人は上野(うわの)さめ子という女性です。

 今回わかったことがあります。四首をつくったのは1910年(明治43)10月中旬ですが、二首目に「今は何処に/何を思ふや」とあります。上野さめ子は11月上旬に滝浦文弥というクリスチャンと結婚しました。その式場は本郷教会でした。啄木は本郷弓町二丁目に住んでいましたから、式場は目と鼻の先だったのです。お互いにこの偶然を生涯知らなかったと思われます。

(近藤典彦 「石川啄木と花」第十一回 白い躑躅 <真生流機関誌「真生」2018年 no.307>)

 

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新刊 啄木の小説から佳作3編を収載

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カシワバアジサイ

天鵞絨・他 石川啄木小説選

・著者 石川啄木

・出版年月日 2020年7月9日

・出版社 本の泉社

・定価 1600円

書籍説明

歌人石川啄木の小説から佳作3編を収載。

視線を落として、東京へ出奔する村の娘たちの胸中をとらえた「天鵞絨」、日露戦争後の地方青年の交流と苦悩をえがいた啄木唯一の新聞連載「鳥影」、明治の青年たちの若い思想と議論を噴出した「我等の一團と彼」。

「天鵞絨」「鳥影」は本書が初めての単行本収録。

作家・右遠俊郎の懇切な解説も併載。

目次

 天鵞絨(ビロード)
 鳥影(ちょうえい)
 我等の一團と彼(われらのいちだんとかれ)
 啄木の小説について……右遠 俊郎

 

本の泉社 天鵞絨・他 石川啄木小説選

漱石、藤村、白秋、啄木といった天才が現れ、新しい器に盛るべき料理を作った

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空に真赤な雲のいろ。玻璃に真赤な酒のいろ。なんでこの身が悲しかろ。空に真赤な雲のいろ。(北原白秋

(古典百名山:81)

北原白秋邪宗門」 平田オリザが読む

詩壇に革新、象徴詩を確立

  • 島崎藤村が『破戒』を発表し(一九○六年)、石川啄木が『一握の砂』を刊行して(一○年)小説や短歌の「近代化」がほぼ完成を見た前後、詩の世界でも同様の革新が起こっていた。

   空に真赤な雲のいろ。
   玻璃(はり)に真赤な酒のいろ。
   なんでこの身が悲しかろ。
   空に真赤な雲のいろ。

  • しかし、多くの人々は、そこで何を書けばいいのかが解らなかった。漱石、藤村、白秋、あるいは啄木といった天才が現れて、新しい器に、盛るべき料理を作った。それは張りぼての国家だった明治日本が、曲がりなりにも「近代国家」の体裁を整えていくのと軌を一にしていた。(劇作家・演出家)

(2020-06-20 朝日新聞

 

(古典百名山:81)北原白秋「邪宗門」 平田オリザが読む:朝日新聞デジタル