〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 57

ウメ

いまだから

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 57

57 釧路市阿寒町阿寒湖温泉 神のごと遠くすがたをあらはせる

 神のごと

 遠くすがたをあらはせる

 阿寒のやまの雪のあけぼの

 

所在地 釧路市阿寒町阿寒湖温泉1 阿寒湖畔

建立  1951年9月10日 阿寒湖畔部落民一同

 

Googleマップでは、阿寒湖に突き出した一番上にボッケという場所がありその近くに石川啄木歌碑の表示がある。阿寒湖畔温泉を抜けて阿寒湖のほとり。

Google マップ

 

ストリートビューは、啄木歌碑のところまでは撮影されていない。
下のリンクを張った「口コミ」に写真がある。一番上の写真をクリックすると「石川啄木の歌碑」写真が十数枚見られる。

Google マップの口コミ

 

 

 

 

 

啄木の詩「幣舞橋」は面白いもののひとつ

シュウメイギク

『文学に描かれた「橋」』

 磯辺勝 著 平凡社 2019年9月13日 発行

 

一、幣舞橋を見た人々

 啄木のいた町――湯川秀樹 石川啄木 林芙美子 桑原武夫

  • 記録としてなら、もっと古いものはいくらでもあるだろうが、文学作品の上で幣舞橋を書き残した人といえば、おそらく石川啄木(1886〜1912)が最初であった。
  • 当時の北海道は、啄木のような二十二、三歳の青年でも、役まわりにさえはまれば、新聞社でも大いに腕のふるえるような時代であったことがわかる。そういう活気のある土地に身をおいたからこそ、啄木の才能が花開いたことも事実だった。北海道での生活を抜きにしては、啄木の歌というものは考えられないのである。
  • 啄木は釧路新聞紙上に、「ゆめみる人」という署名で何編かの詩を発表した。

 

「幣舞橋」

  傾きかけしあやふさに、
  行き来の人等かく思ふ。
  三月とざせる川氷
  とけなばやがて彼の橋の
  くづれ落つ可き時こんと。

 

  されど官吏も商人も
  はた馬、車、馬橇さへ
  そしらぬ顔に行き交ひて、
  見よ彼の橋の日をまた夜
  流れに舟は下過ぐる。

 

  柱歪みて欄よれて
  追いてみにくく横たはる
  悲しきさだめ――自づから
  渡ればなげくきしきしと―― 
  彼の幅狭の長き橋。

(「釧路新聞明治41年3月27日)

 

これだけの詩を書いた啄木が、『日記』のなかで一度も幣舞橋のことを書いていないのは不思議な気がする。啄木の見た幣舞橋は、幅が狭いとはいえ、馬や車や馬橇が擦れ違っていたのだから、かなり幅のある橋だったに違いない。ただ、橋脚は歪み、欄干はよじれて全体に傾きかけていた。上流の氷でも解けたら、落ちるかもしれない、という風情である。ここで啄木の詩を論じるつもりはないが、私は数多い啄木の詩の中で、この「幣舞橋」は面白いもののひとつだと思った。

 

 

 

キーン氏の著作、『石川啄木』が新潮文庫に

ワイヤープランツ

詩歌を革新した2人の評伝 客観的な目で人と業績に迫る

  • 2019年に亡くなった日本文学研究家ドナルド・キーン氏晩年の著作、『石川啄木』が『正岡子規』に続いて新潮文庫に収められた。日本近代の詩歌を革新した2人の文学者については、既に夥(おびただ)しい評伝が書かれているが、新鮮な感動を覚えた。子規と啄木の全人像を生き生きとよみがえらせ、その文学の本質に迫っている。
  • 作家の平野啓一郎氏は『石川啄木』の解説で、キーン氏が『正岡子規』はどちらかというと、「書かなければならないと思って書いた」本だが、石川啄木は「書きたいと思って書いている」と氏に語ったことを明かしている。
  • 2人とも人間としては欠点も多かった。とりわけ啄木は、酒色に溺れ、自滅的な生活を送り、病気と貧困で自分と家族を苦しめた。平野氏は啄木について「自分の身近に彼がいたなら、果たしてつきあいきれただろうか」と何度となく考えたという。
  • キーン氏が活写した啄木はそんな人物だった。しかしそれでも、支援を続けた宮崎郁雨(いくう)や友人の金田一京助など、曲折はあっても、完全に離れていくということはなかった。才能だけでなく何かしら人間として憎めないものが啄木にはあったと思われる。
  • キーン氏は啄木を、「極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間」と評する。
  • 啄木の告白した心の奥底は、人間が共通して持つものがあるとキーン氏が感じたからに違いない。
    (特別編集委員・藤橋進)

(2023-02-04 世界日報

 

詩歌を革新した2人の評伝 客観的な目で人と業績に迫る | The Sekai Nippo DIGITAL

 

 

 

盛岡の魅力をたっぷりと 歩いて回れる珠玉の街

カルーナ・ブルガリ

​NYタイムス「2023年に行くべき52か所」に選ばれた街

~盛岡へようこそ~

米有力紙ニューヨーク・タイムズの「2023年に行くべき52カ所」にて岩手県盛岡市が選出されました。
「東京から短時間で行くことができ、人混みを避けて歩いて回れる珠玉の街。見過ごされることが多いが、大正時代の和洋折衷の建築物や伝統的な旅館、川が流れる自然が満ちており、とても歩きやすい」と紹介されています。

こちらのページでは、盛岡の魅力をたっぷりとお伝えしていきます!

   -写真キャプション- 石川啄木も親しんだ盛岡天満宮狛犬

盛岡城跡公園

・光原社

岩手銀行赤レンガ館

・もりおか啄木・賢治青春

  • ​1910年に竣工した旧第九十銀行を保存し、石川啄木宮沢賢治の青春時代を紹介しています。明治期の銀行建築でありながら大正・昭和初期の特徴を示す、先駆的で独特なデザインの価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。
    岩手銀行赤レンガ館や盛岡城跡公園とも近いので一緒に回ることができます。

・櫻山界隈
・わんこそば

(いわて銀河100kmマラソン大会実行委員会)

 

morioka | 第17回いわて銀河100kmマラソン

 

 

 

石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館整備検討懇話会を開催 2/14

ウメ

盛岡市プレスリリース

市政記者クラブ加盟社 各位

第7回石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館整備検討懇話会を開催します。

今回は、石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館展示実施設計や今後のスケジュール等について、説明及び協議を予定しています。


1 日 時 令和5年2月14日(火曜日) 午前10時から正午まで
2 会 場 盛岡市玉山総合事務所 3階 大会議室
3 内 容
 (1) これまでの経過等について
 (2) 大規模改修及び増築工事に係る建築実施設計について
 (3) 石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館展示実施設計について
 (4) 今後のスケジュールについて
4 出席者 石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館整備検討懇話会委員
庁内関係課等

(2023-01-31 盛岡市教育委員会事務局 歴史文化課)

 

第7回石川啄木記念館・玉山歴史民俗資料館整備検討懇話会

 

 

 

当時 啄木はすでに「最近はみんなせっかちだ」と嘆いていたらしい

ウメ

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

第2回 明治時代の読書と労働―自己啓発書誕生の時代

  三宅香帆

1. 活版印刷による「黙読」文化誕生

長時間労働と明治時代の幕開け

日本の労働が現代の様式と近くなったのは、明治時代――日本が江戸幕府から明治政府へその政権を移し、そして欧米から取り入れた思想や制度によって近代化を成し遂げようとする時代のことであった。

そもそも「労働」という言葉が使われ始めたのも、明治時代に変わってからだった。翻訳語で「労働」という言葉が広まり始めた頃、日本人の働き方はすでに長時間労働の傾向にあったという。『仕事と日本人』(武田晴人[i]によると、明治時代の日本の工場労働者たちは、農民時代と比較して長時間働くようになっていたのだ。  

  • 西欧での残業に対する考え方と比べると、日本では残業は一般化していたようです。先ほどの日本工業協会の資料によると、一九三七年に東京の工場ではかなりの長時間の残業が観察されています。この年は、まだ本格的に戦争経済には突入していない時期です。この年の調査によると、一日の平均残業時間は二時間前後で、染織(繊維)工業や機械器具工業の男子では三時間に近く、最長では化学工業の一二時間、これは昼夜連続して交代勤務を通しで働いたということでしょう。

    (『仕事と日本人』p172)

  

武田はこのような状況の背景に「労働組合が弱かったこと」「残業による割増賃金が魅力的だったこと」があったと指摘する。[ii]
当時、石川啄木はすでに「最近はみんなせっかちだ」と嘆いていたらしい。
 

  • 意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急(せっかち)なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急(せっかち)な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入(うけいれ)得る場合が少くない。

    (「性急な思想」石川啄木[iii])

 

労働という概念が輸入され、工業化が進み、それにともない労働時間も増えていった明治時代。おそらく当時の人々がせっかちにならざるを得なかった。そこに急速な時代の変化が背景にあったのは確かなのだろう。

 

[i] 武田晴人『仕事と日本人』ちくま新書筑摩書房、2008年)
[ii] さらに武田は『仕事と日本人』の中で、あるフランス人が大阪の都市の印象を1897年時点で「人々せわしげに動き周り、駆け回るばかりだ」と感じていたことを紹介している。
[iii] 石川啄木石川啄木集(上)」新潮文庫(新潮社、1951年)

(2023-01-31 集英社新書プラス)

 

明治時代の読書と労働―自己啓発書誕生の時代 – 集英社新書プラス

 

 

 

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 56

透かし彫り

いまだから

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 56

56 南大通八丁目 あはれかの國のはてにて
 酒のみき

 あはれかの國のはてにて

 酒のみき

 かなしみの滓を啜るごとくに

 

所在地 釧路市南大通8-2 佐野碑園内


建立  1983年(昭和58)8月5日

マップでは、啄木歌碑㉕「あはれかの」の場所。

Google マップ

 

 

佐野碑園は しゃも寅があった場所だといわれる。

    この場所は現在佐野孫右衛門を記念する“佐野碑園”となっているが、かって久寿里場所の運上屋、釧路郡役所、日進小学校の前身丸太学校などのあったところで、釧路発祥の地とされている。
    (「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)

ストリートビューでは、佐野碑園に建つ「あはれかの國のはてにて」の文字がかすかに読み取れる。

Google マップストリートビュー

 

 

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 55

ローズマリー

いまだから

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 55

55 南大通7丁目 西の空雲間を染めて 赤々と

 西の空雲間を染めて

 赤々と

 氷れる海に日は落ちにけり

 

 所在地 釧路市南大通7-2
 先
 建立  1992年(平成4)12月4日

 

マップの中央、啄木歌碑㉔「西の空」。

Google マップ

 

ストリートビューの啄木歌碑は、歩道の石畳によくマッチした場所に建っている。

歌碑の後ろ姿も美しい。

Google マップストリートビュー

 

 

 

 

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 54

スイレン

いまだから

♬ mapで楽しむ「啄木の足跡めぐり」<19>北海道釧路市 54

54 浦見八丁目 波もなき二月の湾に

 波もなき二月の湾に

 白塗の

 外国船が低く浮かべり

 

 所在地 釧路市浦見8-1先


 建立  1992年(平成4)12月14日

舟見坂を上り 臨港鉄道住宅の脇に建つ碑。

マップの中央、啄木歌碑㉓

Google マップ

 

ストリートビューでは、画像中央の街路灯すぐ右下に半円の石碑の頭が見える。

後ろには臨港の煙突から煙がたなびいている。

Google マップストリートビュー

 

 

 

なぜ「盛岡」が行くべき場所の二番目に!  NYタイムズ紙

メタセコイア

背景に…“街づくりの努力” 「2023年に行くべき世界の52カ所」 岩手・盛岡市を選出

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙が「2023年に行くべき世界の52カ所」を発表した。その一つに、岩手県盛岡市が選ばれた。そこには、盛岡市による“街づくりの努力”があった。

■2位の盛岡市「歩いて楽しめる街」

 米・テネシー州から:「(Q.なぜ盛岡へ来たんですか?)ニューヨーク・タイムズの記事を見ました。2023年に行くべき52の場所に入っていたからです」
 アメリカのニューヨーク・タイムズが12日に発表した、毎年恒例のおすすめの旅行先。イギリスの首都ロンドンに続き、2番目に紹介されたのが、岩手県の盛岡だった。
 なぜニューヨーク・タイムズは盛岡を選んだのか?東京から新幹線で数時間で行ける利便性などが理由だ。さらに…。
 米「ニューヨーク・タイムズ」紙:「大正時代に建てられた和洋折衷の建築や現代的なホテルのほか、伝統的な旅館がある。城跡も公園になっていて、歩いて楽しめる街だ」

■ライター「かわいらしく優しく…」

■地盤が強いため…“古い建物”残る

■推薦した記者「隠れた宝石のような街」

■2018年から“外国人客を増やす努力”

■建造物の多くは“個人・民間の所有物”

(「大下容子ワイド!スクランブル」2022年1月17日放送分より)

(2023-01-17 テレ朝news<YAHOO! ニュース)

 

背景に…“街づくりの努力” 「2023年に行くべき世界の52カ所」 岩手・盛岡市を選出(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース