◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <6>
車窓には太平洋。
「クジラに逢える黒潮町」辺り。
国道56号が並行している。
高知文学館前。
高知城の東隣にある。
写真中央に小さく見えるのは「山内一豊公之像」。
蓮池に映る追手門。
高知県立文学館入口。
外壁が石張りで、重厚。
「石川啄木 貧苦と挫折を超えて」 平成11年。
高知県立文学館特別展 図録 平成11年
「石川啄木展 — 貧苦と挫折を超えて ー」
「啄木と土佐」
歌人「海風」主宰 国見純生
- 石川啄木と土佐との因縁は、先ずその父が、晩年を土佐で過ごしたことであろう。
- 啄木の父、石川一禎は、二女とら(啄木の姉)の夫、山本千三郎のもとに寄寓し、大正13年に小樽から高知へ来た。孫嗣子の勝重をまじえた4人家族であった。一禎の没後、旧派風の歌三千八百五十余首の歌稿が見つかった。残念ながら、土佐詠らしいものは見あたらなかった。
- 啄木と土佐のもう一つの因縁は、中村生まれの幸徳秋水のいわゆる幸徳事件のとき、啄木が、文学者としてひたすら関心を寄せ、国家権力の非人間的な圧力に明敏なる反感を示したことであろう。
- この事件に関して啄木の残した文書はいくつかあるが、「明治四十四年の当用日記」に、「帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を『悪魔の顔』とかいてあった。」「社へ行ってすぐ、『今朝から死刑をやっている』と聞いた。幸徳以下十一名のことである。何といふ早いことだらう。」
- 秋水の無罪を信じていた啄木の心情が、ひしひしと伝わってくる。
(つづく)