〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <5>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <5>

 

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史跡めぐり


生家跡

 

幸徳秋水生家(俵屋)跡

 明治4(1871)年、秋水はこの地にあった俵屋で生まれました。俵屋は薬種業と酒造業を営む商家で、秋水は父が嘉平次、母が多治、4人兄弟の末子です。本名は伝次郎。
 若くして自由民権運動に加わりさらに社会主義者として活動するなど大きな足跡を残しています。明44(1911)年いわゆる大逆事件連座させられ、同年1月24日に41才の若さで絞首台の露と消えました。
 墓は中村市山手通りにあり、為松公園には、「幸徳秋水絶筆」の碑があります。

 

  

中村市は、現・四万十市

 

 

 

 

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秋水記念碑

為松公園内


幸徳秋水絶筆」碑

  区々成敗且休論
  千古唯応意気存
  如是而生如是死
  罪人又覚布衣尊

   死刑宣告之日 偶成
      秋 水

 

  区々たる成敗 且く論ずるを休めよ
  千古 唯だ応に意気を存すべし
  是くの如くして生き 是くの如く死す
  罪人 又た覚ゆ 布衣の尊きを
    死刑宣告之日 偶成
       秋 水

             

 

(明治四十四年一月十八日)

この詩は、死刑宣告された明治44年1月18日に戒護看守の菅野丈右衛門の依頼で、沈吟数刻の後、書き与えた絶筆である。

 

 

 

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碑の説明板


釈文 

 

こまごまとした成功失敗について、今あげつらうのはやめよう。
人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ。
このように私は生きて来て、このように死んで行くが、
罪人となって、あらためて無官の平民の尊さを覚ることができた。

    <釈文>  神戸大学名誉教授 一海 知義

 

 

 

 

 

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碑陰

 

絶筆碑の背面

 

秋水・幸徳伝次郎の略歴

1871年(明治4)11月5日この地中村市に生まれ、幼時から豊かな才能を示した。1900年前後『萬朝報』の論説記者として名文をもって世に知られた。同郷の師中江兆民の自由民権論を継承・発展させて、わが国社会主義運動の先駆者となり、『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などを著述して多くの読者を得た。日露戦争に反対して『平民新聞』紙上に「非戦論」を展開した。やがて無政府主義思想に転じ、時の権力によって「大逆事件」の首謀者に仕立てられ1911年(明治44)1月24日、東京市ケ谷監獄の絞首台で平和と民主主義のための闘いの生涯を閉じた。

   1983年1月24日
           幸徳秋水刑死70周年
               記念事業実行委員会

 

 

 

(つづく)