◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
釧路 啄木22歳の新聞記者時代 - 心ときめく76日間 <10> (おわり)
- 「啄木の息HP 2006年夏」からの再掲 + 2018年夏 )
- 写真について 撮影年が記されていないものは2006年撮影
- 「1~25」のナンバーは、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)による。また、2018年釧路文学館編集の「啄木歌碑・記念碑マップ」も全て同じ順序で並んでいる。
◎ さらば釧路 ー 啄木日記より ー
新聞記者として活躍し紅燈の巷に出入りしていた啄木は、やがて釧路がイヤになっていく。
「啄木七十六日間の足跡」 港文館二階展示(2018年)
明治41年(1908年)
3月22日
夢が結べぬ。それからそれと考へて、果敢ない思のみ胸に往来する。つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。
3月23日
何といふ不愉快な日であらう。何を見ても何を聞いても、唯不愉快である。身体中の神経が不愉快に疼く。頭が痛くて、足がダルイ。一時頃起きて届けをやつて、社を休む。
「歌碑のある街」「婚約時代の啄木と節子」 港文館二階展示(2018年)
3月24日
新聞を見ると、昨日の編輯日誌に、自分の欠勤届が遅かつたので日景君が頬をふくらしたと書いてある。馬鹿奴。
今日も一日床の上。
3月25日
兎も角も自分と釧路とは調和せぬ。啄木は釧路の新聞記者として余りに腕がある。筆が立つ、そして居て年が若くて男らしい。男らしい所が釧路的ならぬ第一の欠点だ。
早晩啄木が釧路を去るべき機会が来るに違ひないと云ふ様な気が頻りに起る。
「鉄道冬期操業視察団の記念写真(左側の窓の左)」など 港文館二階展示(2018年)
3月26日
少し許り神経衰弱が起つたらしい。立つと動悸がする。横になつてると胸が痛む。不愉快だ。
3月27日
自分が釧路を去るべき機会は、意外に近よつて居る様な気がする。
「釧路啄木一人百首」など 港文館二階展示(2018年)
3月28日
今日も休む。今日からは改めて不平病。
十二時頃まで寝て居ると、宿の下女の一番小さいのが、室の入口のドアを明けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。
″ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ″
歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。
酔に乗じて次の如きものを書いた。
″さらば″
啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷中の趣味を解し、觴を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天上の楽となす。既にして酔さめて痩躯病を得。枕上苦思を擅にして、人生茫たり、知る所なし焉。
啄木は林中の鳥なり。風に随つて樹梢に移る。予はもと一個コスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其行く所を知らず。噫。
予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを袂別の辞となす。
「啄木七十六日間の足跡」 港文館二階展示 (2018年)
4月1日
今日は何とかして、金を拵へなければならぬ、と考へた。其次は、イヤ、何とかして東京に行かねばならぬ。…………
4月2日
朝、鎌田君から十五円来た。新聞を披いて出帆広告を見ると、安田扱ひの酒田川丸本日午後六時出帆──函館新潟行──とある。自分は直ぐ決心した。“函館へ行かう。” “さうだ、函館へ行かう。”
4月3日
十時半波止場に菊池君と手を分つて艀に乗つた。二三度波を冠つて酒田川丸に乗る。
石炭を積まぬから明日の出帆だと云ふ。
4月4日
船員は皆大屈さうに遊んで居る。何時の出帆かと聞くと、今日は潮が無くて炭が積めぬと云ふ。
4月5日
石炭を積み了つて七時半抜錨。波なし。八時港外に出た。氷が少し許り。
(明治41年 啄木日記)
港文館前 父一禎かと思う修行僧のような啄木像(2018年)
啄木は76日間の釧路滞在(合わせて約1年の北海道生活)に終わりを告げ、宮古経由で4月7日夜、函館に着く。
それから4年後の1912年(明治45)4月13日、啄木は26歳と少しの生涯を終える。
港文館前(2018年) 彫刻制作 本郷 新
啄木はすぐれた才能と美しい魂の持主であったが、正規の学歴のなかったことはその生涯の最大の不幸であった。
釧路新聞社に移ってからは、その才幹を見こんだ社長白石義郎の厳命で、身分は三面主任でも総編集をまかせられ、啄木はその知遇に感激して全力を傾注して充実した紙面を作り、競争紙『北東日報』を圧倒した。
しかし年齢が若く、正規の学歴のない啄木は幹部とはなりえず、依然三面主任のまま主筆日景安太郎の配下としての地位に甘んじる境遇にあった。四月上旬、啄木は突然釧路を去って函館に渡り、宮崎郁雨の援助で急遽東京に向った。
正規の学歴のないすぐれた才能の持主が、社会的に恵まれた地位を獲得する唯一の方法は、東京に出て小説を書いて文壇の寵児になることであった。そしてこれはいまも変りがない。
(『補説 石川啄木傳』岩城之徳 さるびあ出版 1968年)
(おわり)
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主要参考資料
・「全国の啄木碑」北畠立朴 冊子 2006
・「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三 釧路新書 2005
・「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子 盛岡タイムス 2002~2004
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983
・「石川啄木歌集全歌鑑賞」上田博 おうふう 2001
・「文藝臨時増刊号 石川啄木読本」河出書房『私の知っている啄木』近江じん 1955
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