〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

岩手県:盛岡市 ─ 中学受験のため通った江南義塾、母校盛岡一高、新婚の家

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

岩手県盛岡市 厨川・一高・新婚の家

  (「啄木の息HP 2000年」からの再掲) 

 

厨川の歌碑

 盛岡駅から見ると北西方向、厨川一丁目にこの歌碑がある。

 詳しい場所が分からなかったので、土地の人だと思われる方に尋ねると、「はいはいはい、あれでしょう。“才を何とか”という歌でしょう。国道沿いだけど北を背に立っていますよ。」と教えてくださる。実際は見つけにくい場所だが、説明が丁寧だったので行き着くことができた。

 

 

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茨島の松の並木の街道を

われと行きし少女

才をたのみき

        啄木

 

 

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 国道4号線がすぐそばを走っている。

 裏面には、「昭和六十一年十二月厨川板垣家寄贈」の文字。

 

 

 「茨島」は、盛岡から渋民へ向かう途中にあった地名で、「われと行きし少女」と歌われたのは、妻節子の親友、板垣玉代である。

 その板垣家の人々が、この地を選び碑を建てた。

 

前九年の歌碑

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「江南義塾盛岡高等学校」の表示と
石川啄木歌碑」のプレートが仲良く並んでいる。

 

 盛岡市“前九年”という地名は、その文字を見ているだけで何か有りそうで由来が知りたくなる。

 前九年三丁目に江南義塾盛岡高校がある。

 

学術講習会は明治25年9月、市内加賀野21番戸の旧曹洞宗の学校に創設された。明治30年春に日影門外小路に移転し、同35年3月に江南義塾と改称した。これがのちに岩手橘高校となり、さらに平成7年4月からは「江南義塾盛岡高等学校」と改称して現在に至っている。長く市内大沢川原にあった校舎が前九年に移転されたは、昭和55年5月のことである。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)

 

 1897年(明治30年)盛岡高等小学校3年の啄木は、学術講習会(後に江南義塾と改称)に通い、中学受験に備えた。

 

 

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 己が名をほのかに呼びて

 涙せし

 十四の春にかへる術なし


「歌碑縁起」
 明治25年9月16日盛岡市加賀野において私立江南義塾として発足。明治30年6月30日には、少年石川啄木も塾生として入門した。・・・啄木の秀歌一首を刻し、これを記念する。 
       昭和57年12月 私立 岩手橘高等学校

 

 碑の後ろ側のフェンスに大きく、「全国高等学校ボクシング大会出場」(写真では“学”と“グ”の裏文字が碑の両横に写っている)の横幕がある。歌碑の脇で一人黙々と草刈りする青年がいた。その方に「ボクシング大会の結果はどうでしたか?」と、尋ねると「二回戦敗退でした。」とのこと。

 歌碑は桜の木に囲まれているので、花の季節にはまた美しい光景が見られると思う。

 

盛岡第一高校

 岩手大学農学部近くに現在の岩手県立盛岡第一高等学校がある。ここでの学生時代は啄木にとって、好成績で入学し、友だちを得、師に出逢い、文学の道を見つけ、短い生涯の中でも輝いていた時であろう。
 学校は、名称が変わり、場所も移ってしまったが、今も白堊の校舎と若者たちがいた。 

 

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現在の盛岡第一高校

   

     盛岡の中学校の

     露台の

     欄干に最一度我を倚らしめ  

                   啄木

 白いペンキ塗りのハイカラな洋風の建物で、生徒や市民から「白堊城」と呼ばれた。校歌にも「汚れは知らぬ白堊城」と歌われ、現在でも伝統を伝える象徴的な愛称として、「白堊」が使われている。啄木の歌に詠まれた「露台(バルコン)」は、正面玄関の上。
(森 義真「国際啄木学会岩手大会 文学散歩」2001年)

 

 啄木が通ったころの盛岡中学の校舎は「内丸」というところにあった。県庁の近くで今は岩手銀行本店になっており、「盛岡中学濫觴の地」と銘された啄木歌碑がある。現在の「上田」に移ったのは1917年(大正6年)である。

 

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今も白堊の校舎

岩手県立盛岡第一高等学校 名称の変更

1880年(明治13) 公立巖手中学校として創立
1886年(明治19) 岩手県尋常中学校
1897年(明治30) 岩手県盛岡尋常中学校 
              1898年(明治31年) 啄木 入学
1899年(明治32) 岩手県盛岡中学校
1901年(明治34) 岩手県立盛岡中学校  
              1902年(明治35年) 啄木 退学
1948年(昭和23) 岩手県立盛岡第一高等学校

 

 啄木新婚の家

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 賑やかな中央通りから小路を入ったところに、啄木が明治38年6月から3週間ほど暮らした家が残されている。この家は玄関を入るとすぐ8畳の部屋があり奥に8畳と4.5畳の二間があって、この奥の二間を石川一家が間借りした。4.5畳の部屋が啄木夫妻の新婚の部屋で、隣の8畳に父母と妹が寝起きしていたという。

 

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床の間には拓本、写真が並ぶ

 

「我が四畳半(一の上)」

・・我が四畳半は、蓋し天下の尤も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而して又、尤も暢気、尤も幸福なるものゝ一ならむ。一間半の古格子附いたる窓は、雨雲色に燻ぶりたる紙障四枚を立てゝ、中の二枚に硝子嵌まり、日夕庭の青葉の影を宿して曇らず。西向なれば、明々と旭日に照らさるゝ事なくて、我は安心して朝寝の楽を貪り得る也。・・

「我が四畳半(八)」

・・我は昨日、その四畳半を去って、一家と共にこゝの中津川の水の音涼しくも終夜枕にひびく新居に移りぬ。あゝ夢の如くも楽しく穏やかなりしそこの三週日よ。それはた今や、我と我が古帽との歴史に、一ケの美しき過去として残さるゝに過ぎずなれり。

石川啄木「閑天地」)

 

 

 

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新婚の家の「我が四畳半」

 

「花婿のいない結婚式」が行われたのは、奥の八畳間であり、隣が、啄木と節子の部屋「我が四畳半」の舞台である。啄木が、この家に来たのは明治38年6月4日。25日には、加賀野磧町に転居した。啄木は、わずか3週間住んだだけ・・。 なお、節子の実家「堀合家」は、この家から50メートルほど離れたところにあった。
(森 義真「国際啄木学会岩手大会文学散歩案内」2001年)

 

 

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新婚の家の裏側

 

 

啄木新婚の家」は、実在する数少ないゆかりの家として貴重な存在だ。この家が残る中央通りは、昔の町名で「帷子小路」と呼ばれた所である。旧町名で小路が付くのはだいたい侍町が多いが、帷子小路もまた、昔の侍町だった。
 貞亨年中に侍屋敷割をするさい、帷子多左右衛門善慶が町割したことに由来してそのような町名になったという。
 昭和59年7月1日より、盛岡市指定有形文化財(建造物)となっている。
(伊山治男「時空紀行」)

 

 トイレは狭く、もちろん現在は水洗様式だが何となく昔のままの感じ。薄暗い電気の明かり、狭い空間に便器が斜めに入っていた。トイレの中側から戸を開けると床が廊下に向かって三角に切れ込んでいた。家そのものは思ったより大きく、玄関は前後に二つあり4世帯が暮らしていたという。

 

報恩寺

 立派な構えを持つ寺。五百羅漢でも知られている。

 

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ひときわ聳える報恩寺山門

 

 山門入口に啄木の詩が紹介されてあった。1903年(明治36)2月16日、啄木17歳までに後三日という夜に作られた。

 

 処女詩集 『あこがれ』
 
  「落瓦の賦」
 
 (幾年の前なりけむ、猶杜陵の学舎にありし頃、秋のひと日友と城外北邱のほとりに名たゝる古刹を訪ひて、菩提老樹の風に嘯ぶく所、琴者胡弓を按じて沈思頗る興に入れるを見たる事あり。年進み時流れて、今寒寺寂心の身、一夕銅鉦の揺曳に心動き、追懐の情禁じ難く、乃ち筆を取りてこの一篇を草しぬ。)
(中略)
 
(最期の章)
琴を抱いて、目をあげて、
無垢の白蓮、曼陀羅華、
靄と香を吹き霊の座を
めぐると聞ける西の方、
涙のごひて眺むれば、
澄みたる空に秋の雲
今か黄金の色流し、
空廊百代の夢深き
伽藍一夕風もなく
俄かに壊れほろぶ如、
或は天授の爪ぶりに
一生の望み奏で了へし
巨人終焉に入る如く、
暗の戦呼をあとに見て、
光の幕を引き納め、
暮暉天路に沈みたり。
          (甲辰二月十六日夜)

 

龍谷

 龍谷寺は、啄木の母方の伯父・葛原対月が明治4年から28年まで住職をしていた。対月は啄木の父一禎の師僧である。その縁で対月の妹カツと一禎は結ばれた。

 1904年(明治37)1月8日、啄木は友人阿部修一郎の姉梅子の葬儀に参列のため龍谷寺に行き、節子に会う。午後、姉(田村サダ)の家で夜8時過ぎまで節子と語り、将来を約束する。

 

 

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 啄木は少年時代、対月から詩歌の手ほどきをうけた。父母の縁を結び、啄木・節子の縁を結んだのもこの場所だった。

 無人販売機で花を買う人がいた。いかにも寺町らしい。
 龍谷寺の「モリオカシダレ桜」の老木は,国の天然記念物に指定されている。
 

 

天満宮

 梅林一隅に盛岡市内で最初に建てられた啄木歌碑がある。自然石に刻まれた文字は啄木の直筆から集字拡大した。

   病のごと

   思郷のこころ湧く日なり

   目にあをぞらの煙かなしも

 

 

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天満宮境内の狛犬

台座に刻まれた啄木の歌
 
*一対の狛犬
(向かって右)
松の風夜昼ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に
 
(向かって左)
夏木立中の社の石馬も汗する日なり君をゆめみむ
  
*キツネの像
苑古き木の間に立てる石馬の背をわが肩の月の影かな

 

 少年が三人、甲子園の応援歌を歌いながら野球をしていた。

 

岩山展望台

 1997年(平成9)「啄木 詩の道」が整備された。約100mの遊歩道の途中にさまざまな色と形の歌碑が並んでいる。

 

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啄木詩の道の入口

 

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遠く盛岡市街を望む

 

  ふるさとの山に向ひて
  言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな

 

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遊歩道に咲いたレッドクローバー

 

 

啄木望郷の丘

 啄木が少年時代によく登った標高343メートルの岩山に、1982年(昭和57年)啄木の像が作られた。盛岡市街や岩手山北上川の流れなどが見渡せる。


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「啄木望郷の像」は姫神山に向かっている。

 

 汽車の窓 はるかに北に故郷の 山見えくれば襟を正すも  啄木
 

 光淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸に抱きぬ 節子

 

 

啄木の母校・下橋中学

 石川啄木、米内光政、金田一京助などが学んだ盛岡高等小学校が、現在の盛岡市立下橋中学校である。

 校門から出てきた中学生の集団に歌碑の場所を聞いた。仲間うちで「誰のことなんだよ」「知らねえよ」などと聞こえ、やがて1人が「あれじゃないの」と指差してくれた。

 

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 校門を入り左手すぐだった。双子の山のような自然石に金田一京助の文字で歌がきざまれている。

 

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下橋中学校校庭の歌碑


    その昔
    小学校の征屋根に我が投げし鞠
    いかにかなりけむ

 

 

石川啄木若山牧水 友情の歌碑」

 下橋中学校校門の前には、啄木・牧水友情の歌碑がある。

 

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 石川啄木若山牧水 友情の歌碑

 
教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝に行きしかな  石川啄木
 
城跡の古石垣にゐもたれて
聞くともなき
波の遠音かな        若山牧水

 

 

 若山牧水は1885年生まれ。啄木が亡くなる1年ほど前に出会った。啄木が晩年もっとも心を許した友人であった。
 彼は、1912年(明治45)4月13日、啄木の臨終に立ち会った。

(2000-秋)