〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

千葉県:館山市 - 啄木死去後、妻節子は娘を連れ房州にて療養・出産

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

千葉県:館山市 - 啄木死去後 妻節子は房州にて出産

 (「啄木の息HP 2001年」からの再掲)

 

  

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 JR 館山駅前はポピーの真っ盛り

 

片山かの宅跡【妻・節子旧居】

 1912年(明治45年)4月13日石川啄木死去。

 同年5月2日、妊娠8カ月の妻節子は、5才4カ月の長女京子をつれて房州北条へ療養に行く。節子親子が間借りしたのは、片山かのという方の離れだった。場所は、現在の「館山シーサイドホテル」の真裏方向と言ってよい。間借りした頃の敷地は母屋も入れて500坪位だった。当時の建物は1983~4年頃に取り壊された。

 

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 旧居跡地は シュロの大木が目に付く。

 井戸は陶製で周りに模様が浮き彫りになっていて重い石の蓋が載っていた。
 広い敷地は槇の生け垣がめぐる。鳥の声と桜の花、井戸とシュロと松と槇は あの頃を継いでいるのか。

 

八幡海岸と松林

 館山湾は鏡ヶ浦の名の通り波おだやか。右手遠くに三浦半島が見え、赤い服の小さな女の子が、砂浜で遊んでいた。

 

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「・・ときどき、京子ちゃんをつれ勉強のあいまに海岸に遊びにいった。門を出て、畑のあいだにある細い道をとおっていくと、太い松のある林のなかにでる。」・・松林を過ぎ、波打ち際に出ると、京子ちゃんは小石を拾い集めたり、波の子を拾ったり、防風の根をほったりして遊ぶ。帰ろうと言うと京子ちゃんはあばれだす。・・ 

《成瀬政男(片山かのの孫)『石川啄木の遺族につながる思い出』》

 

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  離れから海岸へ行くにはこの松林を通る。

 

1907年(明治40)1月2日啄木の日記

・・かねてよりせつ子と共に撰びおきしなれば「京子」というに決すべし。「京」の字、みやびにして優しく美しし。我が友花明金田一君は京助といふ名なり。この友の性と心と、常に我が懐しむ処なれば、その字一つを採るもいわれ無き事にあらじ。

 

お宮まいりと片山かのさん

・・生まれた女の子は、房江と名づけられたそうである。・・八幡では子供が生まれていく日かすぎると、氏神さまにお宮まいりをする習慣があった。・・私は背に房江ちゃんをおぶわせられた。

節子夫人は京子ちゃんの手をとり、しずかに足をはこぶ。祖母はご供物を風呂敷づつみにいれ、私の背の房江ちゃんを見守りながら、ともに歩いていった。

ゆくさきは通称、八幡の八幡さまといわれるお宮である。・・

(成瀬政男「石川啄木の遺族につながる思い出」)

 

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 ‘氏神さま’と書いてあるので近所の小さな神社と思ったら、安房国総社として千年の歴史を持っている。
 拝殿向拝の彫刻は54態の様々な龍が彫られてあり見事。


 どうしてもここで片山かのさんについて触れたい。もちろん孫の成瀬政男さんから見た祖母である。

 かのさんの勇気のある温かい人柄は、後に東北大学を出て世界的に有名な歯車工学の博士となった成瀬政男さんの文章の中ににじみ出ている。

 『もしも』はいけないけれど、節子さんがこの地に今少し長く暮らすことが出来たなら、病気の具合はどう変わっていただろうか。

 祖母はだれにでも、そのひろい愛をかたむけた。・・(ちかくの)松林のなかに、番屋とよばれる家があった。・・(世間から差別されていた)・・その人たちとも、わけへだてなく、交際していた。番屋の人たちは、このことを涙を流さんばかりに喜んでいた。

 また、町の代表らしい一行がやってきて、「肺を患っている病人をここにおかれては困る」と横やりをいれた。かのさんは「遠いイギリスから来ているコルバンさんという人が、身よりのない病人を助けている。私もその片棒の一つくらいはかつがせていただきたい。これくらいのことができなくては、外国のかたに恥ずかしい」と静かに話した。一行は、頭をたれて、うつむきがちに帰っていった。

(成瀬政男「石川啄木の遺族につながる思い出」)

 

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 安房高校の北側。

 旧長尾藩八幡共同墓地の門から入り、直進した左側に片山かのさんのお墓がある
 そこには、鮮やかな色の花が飾られてあった

コルバン夫妻

 

 啄木の令妹光子さんを通じて教会のコルバン夫人と更に土岐善麿氏との厚意で、身重の病躯を房州北條の地で養ふことになった。
(吉田孤羊「啄木を繞る人々」)

 


 節子さんのお世話を片山かのさんに頼み、部屋代・医療費・一日に3合の牛乳・昼のスープ等を負担したのがコルバン夫人であった。その夫であるイギリス人のコルバン医師は、医療伝導を目的とした医療宣教師として函館に1898年(明治31)着任、1905年(明治38)に脳溢血による中風のため、函館よりも気候温暖な館山へ転地療養。1909年宣教師を退職しイギリスへ戻るが、再び自給宣教師として館山に移り住む。
(粕谷常吉編「房州に光を掲げた人々」)

 

 1911年(明治44)北条六軒町に教会牧師館を建てた。このころコルバン夫妻来て療養のかたわら近在の病者のために奉仕した。
聖公会史)

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 聖アンデレ教会は館山駅から徒歩5~6分。
 静かな場所で保育園と一緒にあった。

 河崎司祭様は元気に走る子供たちの中から出ていらっしゃった。

 「コルバン夫人は南三原というところに住んでいました。この地ではコルバンさんというとミセス・コルバンのことをいいます。お墓が近くにありますがミセス・コルバンのものだけです。大変わかりにくい場所なので・・」とお話になり、地図を書いてくださった。

 城山公園の駐車場先の左側、細い細い道は、すぐにけっこうな登りになる。椿の散る小道は途切れるかと思うように頼りなく続き左側には民家もちらほら。その突き当たりにキリスト教の墓地がある。右手奥の立派な石塔にコルバンの名が記されていた。

 

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 墓石の下には日本語でこのように彫られてあった。

 ・ミセスサラエレンコルバン昭和一五年七月一三日永眠
 ・スエーヒエルト昭和八年四月十日永眠

   (スエーヒエルトはミセスコルバンの妹)

 縁あって館山で療養できたことは、節子の人生の中の幸せな部分だったと思う。

 そして節子の房州での暮らしは、コルバンさんと片山かのさん抜きには語れない。節子の家の跡地、八幡海岸、かのさんの墓、聖アンデレ教会など訪ね歩き、わたしはその思いを深くした。

 これを書いている日の新聞にかのさんの孫の成瀬さんの本が、新しいかたちで出版されることが載っていた。

【成瀬政男著『歯車と私』をもとに、林太郎著『心の灯台』出版(東銀座出版社)】

(2001-春)