〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木を輩出した盛岡の魅力に触れ 五七五を創作

f:id:takuboku_no_iki:20190804162903j:plain

エドクソウ

盛岡の魅力、五七五に

 国際俳句大会・関連ツアー

  • 盛岡市制施行130周年記念事業「盛岡国際俳句大会」の一環として、観光名所を巡りながら俳句を詠む「盛岡吟行ツアー」は3日、同市内で行われた。県内外から23人が参加。石川啄木(1886-1912年)を輩出した盛岡の魅力に触れながら、情趣に富む創作の世界を堪能した。
  • 一行は盛岡駅を出発し、啄木新婚の家、三ツ石神社、岩山公園、上の橋、盛岡城跡公園を巡りながら同市の歴史や文化に理解を深めた。

(2019-08-04 岩手日報

 

盛岡の魅力、五七五に 国際俳句大会・関連ツアー | 岩手日報 IWATE NIPPO

 


何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか  講座 9/25

f:id:takuboku_no_iki:20190804162152j:plain

ハイビスカス

毎日文化センター講座

石川啄木 ―詩、小説、そして短歌へ」

講師:歌人、「塔」編集長 松村 正直

2019年9月25日(水)11:00~12:30

受講料 1回 2,380円

開催地 大阪

  • 石川啄木は歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』を生んだ歌人として知られていますが、そのデビュー作は詩集であり多くの詩を作っています。また、小説家になることを目指して小説をたくさん書いた時期もありました。
  • 他にも日記や評論など様々な表現方法を模索した末に、何を求めて啄木は短歌にたどり着いたのか。そして、その歌はなぜ今も多くの人々に親しまれ続けているのか。具体的な作品を紹介しながら、わかりやすくお話しします。

 

毎日文化センター

 


石川啄木 家出の妻を連れ戻す必死の作戦とは?

f:id:takuboku_no_iki:20190802161754j:plain

ヤツデ

NHKラジオ第1 毎週日曜 午後4時05分

2019/07/28 DJ日本史「嫁姑問題 これにて一件落着!」

仲が悪い嫁と姑の関係を修復するカギは何か?

・出演者 松村邦洋さん 堀口茉純さん 川久保秀一さん

妻に家出されてしまった明治時代の歌人石川啄木(いしかわ たくぼく)のエピソードをご紹介。

  • 石川啄木の家では、嫁と姑の対立は深刻でした。啄木の母のカツはちょっと意地が悪いところがあったようです。こんな姑に対し妻の節子は我慢しきれず、ついに子どもを連れて家を出てしまいます。
  • 置き手紙に書いてあったのは、こんなことばでした。「私は私の愛を犠牲にして身を退くので、どうか御母さんへの孝養を全うしてください」。
  • これに大きなショックを受けた啄木は、なんとか妻を呼び戻そうと、必死の作戦。親友の言語学者金田一京助の元を訪ねます。「妻に手紙を書いてほしい。私のことは馬鹿と書こうが腰抜けと書こうが、何と書いてもよい」。啄木に泣きつかれた金田一は啄木の妻・節子宛ての手紙を書きます。
  • 金田一はこの時のことを、後にこう話しています。「文句は忘れたけれども、これなら帰らずにいられまい、と思うような名文を書いたつもりだった」。
  • 啄木は自分自身も節子に書き、さらには小学校時代の恩師にも手紙を送って妻を説得するように依頼。
  • こうして手紙を使って思いを伝え合う作戦が功を奏したのか、妻の節子は3週間後、家に戻ってきました。

 

石川啄木 家出の妻を連れ戻す必死の作戦とは?|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる

松村邦洋堀口茉純 石川啄木の嫁姑問題を語る!
※再生ボタンから(4分ほど)お聞きいただけます(9月29日まで)。

 

 


四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <6>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <6>

f:id:takuboku_no_iki:20190801152207j:plain

海の色 空の色


車窓には太平洋。

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152256j:plain

クジラの町!

「クジラに逢える黒潮町」辺り。


国道56号が並行している。

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152345j:plain

高知県立文学館前


高知文学館前。

 

高知城の東隣にある。
写真中央に小さく見えるのは「山内一豊公之像」。

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152514j:plain

追手門と天守

高知城は、全国「現存天守12」の中に入る。

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152556j:plain

蓮池に映える


蓮池に映る追手門。

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152637j:plain

石張りの入口


高知県立文学館入口。


外壁が石張りで、重厚。

 



 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152858j:plain

図録


石川啄木 貧苦と挫折を超えて」 平成11年。

  

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190801152945j:plain

土佐と啄木


高知県立文学館特別展 図録 平成11年


 「石川啄木展 — 貧苦と挫折を超えて ー」

 


「啄木と土佐」
    歌人「海風」主宰 国見純生

 

  • 石川啄木と土佐との因縁は、先ずその父が、晩年を土佐で過ごしたことであろう。
  • 啄木の父、石川一禎は、二女とら(啄木の姉)の夫、山本千三郎のもとに寄寓し、大正13年に小樽から高知へ来た。孫嗣子の勝重をまじえた4人家族であった。一禎の没後、旧派風の歌三千八百五十余首の歌稿が見つかった。残念ながら、土佐詠らしいものは見あたらなかった。
  • 啄木と土佐のもう一つの因縁は、中村生まれの幸徳秋水のいわゆる幸徳事件のとき、啄木が、文学者としてひたすら関心を寄せ、国家権力の非人間的な圧力に明敏なる反感を示したことであろう。
  • この事件に関して啄木の残した文書はいくつかあるが、「明治四十四年の当用日記」に、「帰って話をしたら母の眼に涙があった。「日本はダメだ。」夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を『悪魔の顔』とかいてあった。」「社へ行ってすぐ、『今朝から死刑をやっている』と聞いた。幸徳以下十一名のことである。何といふ早いことだらう。」
  • 秋水の無罪を信じていた啄木の心情が、ひしひしと伝わってくる。

 (高知県立文学館特別展 図録 平成11年「石川啄木展 — 貧苦と挫折を超えて ー」)

 

 

(つづく)

 


四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <5>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <5>

 

f:id:takuboku_no_iki:20190731153954j:plain

史跡めぐり


生家跡

 

幸徳秋水生家(俵屋)跡

 明治4(1871)年、秋水はこの地にあった俵屋で生まれました。俵屋は薬種業と酒造業を営む商家で、秋水は父が嘉平次、母が多治、4人兄弟の末子です。本名は伝次郎。
 若くして自由民権運動に加わりさらに社会主義者として活動するなど大きな足跡を残しています。明44(1911)年いわゆる大逆事件連座させられ、同年1月24日に41才の若さで絞首台の露と消えました。
 墓は中村市山手通りにあり、為松公園には、「幸徳秋水絶筆」の碑があります。

 

  

中村市は、現・四万十市

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190731154034j:plain

秋水記念碑

為松公園内


幸徳秋水絶筆」碑

  区々成敗且休論
  千古唯応意気存
  如是而生如是死
  罪人又覚布衣尊

   死刑宣告之日 偶成
      秋 水

 

  区々たる成敗 且く論ずるを休めよ
  千古 唯だ応に意気を存すべし
  是くの如くして生き 是くの如く死す
  罪人 又た覚ゆ 布衣の尊きを
    死刑宣告之日 偶成
       秋 水

             

 

(明治四十四年一月十八日)

この詩は、死刑宣告された明治44年1月18日に戒護看守の菅野丈右衛門の依頼で、沈吟数刻の後、書き与えた絶筆である。

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190731154128j:plain

碑の説明板


釈文 

 

こまごまとした成功失敗について、今あげつらうのはやめよう。
人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ。
このように私は生きて来て、このように死んで行くが、
罪人となって、あらためて無官の平民の尊さを覚ることができた。

    <釈文>  神戸大学名誉教授 一海 知義

 

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190731154233j:plain

碑陰

 

絶筆碑の背面

 

秋水・幸徳伝次郎の略歴

1871年(明治4)11月5日この地中村市に生まれ、幼時から豊かな才能を示した。1900年前後『萬朝報』の論説記者として名文をもって世に知られた。同郷の師中江兆民の自由民権論を継承・発展させて、わが国社会主義運動の先駆者となり、『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などを著述して多くの読者を得た。日露戦争に反対して『平民新聞』紙上に「非戦論」を展開した。やがて無政府主義思想に転じ、時の権力によって「大逆事件」の首謀者に仕立てられ1911年(明治44)1月24日、東京市ケ谷監獄の絞首台で平和と民主主義のための闘いの生涯を閉じた。

   1983年1月24日
           幸徳秋水刑死70周年
               記念事業実行委員会

 

 

 

(つづく)

  

 


問題 啄木がはじめて出版した詩集の名前は? 「盛岡もの識り検定」

f:id:takuboku_no_iki:20190730160253j:plain 

アケビ

 ぐるっと兵庫、大阪、京都

盛岡もの織り検定(岩手県

 明治38年石川啄木がはじめて出版した詩集はなんですか。(第12回、3級から)

(ア)あこがれ (イ)一握の砂 (ウ)悲しき玩具 (エ)雲は天才である

 

 石川啄木が生まれ育ち、宮沢賢治が若い頃を過ごした盛岡市。名物のわんこそばは、せっかちな関西人でも追いつかないほど気ぜわしいが、きっと言われがあるのだろう。

 「盛岡もの識(し)り検定」は盛岡商工会議所の主催。通称「もりけん」。今年度の検定は12月15日。

(2019-07-23 毎日新聞

 

挑戦ご当地検定:盛岡もの織り検定(岩手県) 明治38年、石川啄木がはじめて出版した詩集はなんですか - 毎日新聞

 

 

答え (ア)あこがれ

1905(明治38)年、東京の小田島書房より処女詩集『あこがれ』を出版。上田敏の序詩と与謝野鉄幹の跋文が付され、装丁は、友人の石掛友造。集録作品数77篇で定価50銭。

 


四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <4>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <4>

幸徳秋水

f:id:takuboku_no_iki:20190729165357j:plain

お墓への案内

案内の看板

   この奥です →
    幸徳秋水先生墓
    坂本清馬翁墓

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190729165447j:plain

幸徳秋水の墓

 

幸徳秋水刑死108年墓前祭」

               秋水通信 第26号

  • (2019年)1月24日、秋水108回目の命日、今年も恒例の幸徳秋水墓前祭を開いた。
  • 秋水が大逆罪で刑死した西暦1911年は明治44年。明治は翌年で終わり大正、さらに昭和に。さらに平成も今年で終わり、5月から令和になった。安倍政権による強権政治で憲法は瀕死の状態、軍備はますます増強、共謀罪では「謀議」も復活した。平成最期の秋水墓前祭。
  • 百年たったのに・・・秋水の嘆きが聞こえてくるようであった。

(秋水通信 第26号 2019.5.19 幸徳秋水を顕彰する会)

 



 

f:id:takuboku_no_iki:20190729165519j:plain

師岡千代子墓 坂本清馬墓



師岡千代子墓幸徳秋水の元妻)

1875-1960

秋水の二度目の妻。
1899(明治32)年に結婚、社会主義者として活動する夫を支える。政府の弾圧、管野スガの出現などで1909年に離婚。大逆事件後、秋水の求めに応じて獄中へ差し入れをするなどし、秋水刑死の2日前ただ一人面会を許され最後の別れをする。幸徳家墓地では、千代子と秋水の墓石が並んでいる。85歳にて死去。


坂本清馬墓

1885-1975

1907(明治40)年、秋水の書生となる。秋水が翻訳したクロポトキン著『麵麭の略取』の秘密出版に尽力する。
大逆事件で死刑判決をうけるが、特赦で無期懲役。1934(昭和9)年、仮釈放。戦後、1947(昭和22)年、復権大逆事件の無実を訴え続けた。89歳にて死去。


(「幸徳秋水四万十市教育委員会 平成29年発行)四万十市教育委員会発行 平成29年)

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190729165616j:plain

説明板


説明版

幸徳秋水1871年―1911年)

 幸徳秋水は本名伝次郎。明治4年、中村の豪商俵屋に生まれ、幼少から神童と言われました。 
 土佐の自由民権の風土の中で成長し、16歳で上京、林有造の書生となり、やがて中江兆民に師事するとともに、自由新聞、万朝報、平民新聞などの記者、ジャーナリストとして活躍しました。  

 世界的視野での自由・平等・博愛の思想を身につけ、日露戦争では非戦論を唱えました。社会主義運動に挺身し、『廿世紀之怪物帝国主義』など著書多数を残しましたが、明治44 (1911) 年、自由平等思想の普及を恐れた明治政府の弾圧により、「大逆事件」の首謀者に仕立て上げられ、死刑に処せられました。
 20世紀最後の2000(平成12)年、中村市議会(当時)は秋水の名誉を回復し、偉業を讃える「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で採択しました。
 現在も1月24日の命日には、この地で墓前祭が行われております。

                 2011年9月
         幸徳秋水刑死百周年記念事業実行委員会
         四万十市

 

 

(つづく)

 


 

四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <3>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <3>

 幸徳秋水資料室 つづき

f:id:takuboku_no_iki:20190726165724j:plain

大逆事件 ニュース

大逆事件を報道する新聞


大逆事件の真実をあきらかにする会 ニュース」


下段の広告には岩波文庫の「麵麭の略取」などが載っている。

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190726165817j:plain

抗議運動

外国での抗議運動


イギリスやフランスの抗議運動を記したページ。

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190726165903j:plain

針文字の手紙

 

杉村楚人冠宛の針文字書簡」


   京橋区瀧山町
    朝日新聞社
     杉村縦横様
 

        管野須賀子

 爆弾事件ニテ私外三名
 近日死刑ノ宣告ヲ受ク
 ベシ御精探ヲ乞フ
 尚御幸徳ノ為メニ弁ゴ士
 ノ御世話ヲ切ニ願フ

     六月九日

    彼ハ何ニモ知ラヌノデス

 

 

 

 

『針文字から浮かぶ真実』
   幸徳正夫
     税理士・社会保険労務士、秋水の兄駒太郎直系曾孫
     1942年中村市京町生まれ

 

  • この針文字書簡は、大逆事件で処刑された社会主義者ら12名のうち唯一の女性管野スガ(須賀子1881〜1911)が同じく処刑された幸徳秋水の救済を求めて、獄中から密かに朝日新聞記者杉村楚人冠(筆名縦横、1872〜1945)に送った針穴でつづった半紙の秘密書簡である。
  • この書簡が杉村の我孫子市の旧宅の居間にある書棚から見つかり、2010年1月29日毎日新聞夕刊に掲載されたことは、記憶に新しい。しかし、100年間も極秘に保管されていた原本を見た驚きは格別のものがあった。
  • 書簡は当時の検閲を免れるために白紙に針で細かい穴が開けられており、光にかざすと文字が浮かぶようになっている。

 

 

 

 

f:id:takuboku_no_iki:20190726165944j:plain

秋水文庫

 

 

大逆事件サミット in 新宮」 秋水通信 第25号

 

  • 啄木は東京朝日新聞社校正係の時、事件に異常なほどの関心をもち、短歌の同人平出修弁護士を通して事件の本質に迫っていく。事件関連の詩歌、評論等も多く書き残した。死ぬ一年半は事件に没入した。
  • 大逆事件百年の2010年から翌年にかけて名誉市民への取り組みを行ったが、「請願」が市議会の賛成を得るに至らず、いったん頓挫した。
  • しかし、地道な運動を継続した結果、2017年12月議会で条例改正による「議員提案」が可決された。そして今年(2018年)1月24日大石刑死の日に遺族に名誉市民証が授与された。


秋水通信 第25号 2018.12.3 幸徳秋水を顕彰する会)

 

(つづく)

 

 


「友善が歌う啄木のうた」[啄木学級故郷講座]9/7

f:id:takuboku_no_iki:20190725151520j:plain

啄木学級故郷講座 チラシ

啄木学級故郷講座

明治39年、啄木は「自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい」と願い、渋民尋常高等小学校代用教員として教壇に立ちました。
その校舎において「啄木学級」を開校し、啄木のふるさとの自然と人々に触れ合いながら、啄木文学について理解を深めます。

  • 日時 2019年9月7日(土)13:00 受付開始 13:15〜16:00
  • 会場 旧渋民尋常小学校校舎(石川啄木記念館中庭)
  • 募集定員 35名 (定員を超えた場合は抽選)
  • 受講料 1,500円(記念品・写真代込み。当日受け付けでお支払いください)
  • お申し込み 往復ハガキ(1人1枚)に郵便番号・住所・氏名・年齢・性別・電話番号・無料送迎バス利用の有無(盛岡駅西口バスターミナル ⇄ 石川啄木記念館)を明記。
  • 締切 8月20日(火)必着

   宛先 〒028-4132 岩手県盛岡市渋民字渋民9
      石川啄木記念館「啄木学級係」

 

プログラム
・講演 「友善が歌う啄木のうた」(歌とトーク
  講師 田口 友善 氏 (シンガーソングライター、前 もりおか啄木・賢治青春館館長)

・対談 「啄木 IN 歌謡曲

  田口 友善 氏 × 森 義真(石川啄木記念館館長)

◦主催 公益財団法人盛岡観光コンベンション協会

◦お問合せ 石川啄木記念館
 〒028-4132 盛岡市渋民字渋民9
 電話 019-683-2315  FAX 019-683-3119

 


新発売! 『啄木そっくりさん』は、どなた?

f:id:takuboku_no_iki:20190724143410j:plain

表紙

『啄木そっくりさん』

  大室 精一 著

  桜出版  1,200円(税別)

 

《プロローグ》より

 「大室君は啄木にそっくりだね。」と、岩城之徳先生に最初に言われたのは、私が大学二年生の時、「近代国文学」の授業だったと記憶している。それ以来、私は「啄木そっくりさん」と仲間たちから呼ばれるようになってしまった。

 

著者

大室 精一 (オオムロ セイイチ)  
 埼玉県生まれ。専攻は万葉集石川啄木



 

f:id:takuboku_no_iki:20190724143656j:plain

目次の一部

目次

 プロローグ 啄木そっくりさん

  • 第一章 啄木短歌の魅力 キーワード10(神童―そのかみの神童の名の 離散―石をもて追はるるごとく ほか)
  • 第二章 啄木研究史の転換 エポック10(カンニング(岩城之徳氏の伝記) 切断の歌(近藤典彦氏の発見) ほか)
  • 第三章 啄木寸感 アラカルト10(巻頭言「初めて短歌を作った頃」 巻頭言「年賀状の啄木歌」 ほか)
  • 第四章 前著『『一握の砂』『悲しき玩具』―編集による表現』エトセトラ10(序『一握の砂』『悲しき玩具』形成論の現在 ほか)

 エピローグ 青春の虚妄性に挑む(総長賞記念論文)わが青春のメッセージ

 

  

f:id:takuboku_no_iki:20190724144201j:plain

 

f:id:takuboku_no_iki:20190724145258j:plain

切り絵は後藤伸行氏(『切り絵 石川啄木の世界』ぎょうせい)

 

啄木名歌の完成にチャレンジ

  そのかみの神童の名の
  かなしさよ
  ふるさとに来て(a)《怒る・泣く・笑ふ》はそのこと

 

(a)《怒る・泣く・笑ふ》のどれでしょう?

 

『啄木そっくりさん』は、『クイズで楽しむ啄木101』とは姉妹編。


ぜひ手にとって、答えを楽しんでください!

 

申込は 桜出版へ

  メール sakuraco@leaf.ocn.ne.jp

  ファックス  019-613-2369