◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <4>
幸徳秋水墓
案内の看板
この奥です →
幸徳秋水先生墓
坂本清馬翁墓
「幸徳秋水刑死108年墓前祭」
秋水通信 第26号
- (2019年)1月24日、秋水108回目の命日、今年も恒例の幸徳秋水墓前祭を開いた。
- 秋水が大逆罪で刑死した西暦1911年は明治44年。明治は翌年で終わり大正、さらに昭和に。さらに平成も今年で終わり、5月から令和になった。安倍政権による強権政治で憲法は瀕死の状態、軍備はますます増強、共謀罪では「謀議」も復活した。平成最期の秋水墓前祭。
- 百年たったのに・・・秋水の嘆きが聞こえてくるようであった。
(秋水通信 第26号 2019.5.19 幸徳秋水を顕彰する会)
師岡千代子墓(幸徳秋水の元妻)
1875-1960
秋水の二度目の妻。
1899(明治32)年に結婚、社会主義者として活動する夫を支える。政府の弾圧、管野スガの出現などで1909年に離婚。大逆事件後、秋水の求めに応じて獄中へ差し入れをするなどし、秋水刑死の2日前ただ一人面会を許され最後の別れをする。幸徳家墓地では、千代子と秋水の墓石が並んでいる。85歳にて死去。
坂本清馬墓
1885-1975
1907(明治40)年、秋水の書生となる。秋水が翻訳したクロポトキン著『麵麭の略取』の秘密出版に尽力する。
大逆事件で死刑判決をうけるが、特赦で無期懲役。1934(昭和9)年、仮釈放。戦後、1947(昭和22)年、復権。大逆事件の無実を訴え続けた。89歳にて死去。
(「幸徳秋水」四万十市教育委員会 平成29年発行)四万十市教育委員会発行 平成29年)
説明版
幸徳秋水は本名伝次郎。明治4年、中村の豪商俵屋に生まれ、幼少から神童と言われました。
土佐の自由民権の風土の中で成長し、16歳で上京、林有造の書生となり、やがて中江兆民に師事するとともに、自由新聞、万朝報、平民新聞などの記者、ジャーナリストとして活躍しました。世界的視野での自由・平等・博愛の思想を身につけ、日露戦争では非戦論を唱えました。社会主義運動に挺身し、『廿世紀之怪物帝国主義』など著書多数を残しましたが、明治44 (1911) 年、自由平等思想の普及を恐れた明治政府の弾圧により、「大逆事件」の首謀者に仕立て上げられ、死刑に処せられました。
20世紀最後の2000(平成12)年、中村市議会(当時)は秋水の名誉を回復し、偉業を讃える「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で採択しました。
現在も1月24日の命日には、この地で墓前祭が行われております。
(つづく)