〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「林檎  <5>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<5>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • 「石狩の都」(石狩平野の「都」は札幌)の郊外、「君が家」、「林檎の花」。土地と花とそこに住む女性。美しい地名と花とが相乗して、「君」とその人の住む「家」が緑の額縁に囲まれた一枚の絵画を印象づける。島崎藤村の「初恋」に謳われた、前髪にさした「花櫛の花ある君」の詩の世界を下絵に用いた感じすら与える。

(上田博 『石川啄木歌集全歌鑑賞』 おうふう 2001年)

 



智恵子はどこで気づいたか

  • 智恵子は「二」を読みすすめて、どの歌のあたりで、自分が歌われていることに気づきはじめたであろうか。

(略)

  • こうして啄木はすべてが智恵子一人にむけられた歌々であることを彼女が疑いもく受け止めてくれるよう、要所要所に必要な歌を配している。智恵子はその配慮にそってこの節の意味を一歩ごとにたしかに理解してきたことであろう。

(略)

  • りんごの花が散るのは晩春または初夏であろう。この歌を制作しているのは秋である。したがって作歌上の事実からいえば、作者はこの歌を作っている際の今、札幌でこういう情景が展開しているだろうと思っていたわけではない。今札幌で生活している智恵子への恋を「馬鈴薯の花咲く頃」の歌以下十一首の形に詠んできて、その恋人が住むところを、その人のイメージにもっともふさわしく、この十二首目でうたおうとするのである。
  • 石狩の国札幌。その広々とした郊外にあるりんご園。青空のもとりんごの樹々からは白い花びらが舞い落ち、舞い落ちる。その中に立つ「君が家」。その家こそ智恵子のイメージにそのまま通う。啄木はこうした構成意識にもとづき、ここにおくべき歌を創造したのである、とわたくしは思う。

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(注)(14)

  • 従来この歌は、まだ見ぬ智恵子の家を創造して作ったものということが暗黙のうちに前提とされてきた。しかし、わたくしは啄木が実際に智恵子のうちを訪れたことがあり、その記憶をもとにこの歌を作った公算のほうが大きいと思う。根拠は智恵子の長兄儀一の昭和四年三月八日付けのつぎの文章である。

之れ正しく、拙宅でありますが、啄木君が札幌に来た。そして間もなく去つた。その中に一度拙宅を見舞はれましたが、丁度妹不在の為、啄木君も本意なくも帰られました。但し小生は其時座敷に招じて御目にかゝりましたが直に帰られました。

(略)

  • 啄木が橘家を訪れる動機はあった。智恵子への思慕、それも離れてから間もない時の思慕である。好きな人がたとえ不在であってもその生家を。住居を見たいというのは恋愛心理の一つの形であろう。訪れる機会はあったか。あった。

(略)

  • 啄木は掲出歌を詠むにあたって、実際の訪問の記憶をもとにして、あの美しいイメージを創り出していったのだとわたくしは思う。

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(近藤典彦 「『一握の砂』の研究」 おうふう 2004年)

 


 

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  • 北村家には啄木が贈った詩集『あこがれ』と歌集『一握の砂』が所蔵されている。函館文学館の大島吉憲館長によると、『一握の砂』の表紙裏見返し扉には「橘智恵子様 著者」と記され、裏表紙見返しには啄木のハガキが宛書き面をべたっと糊付けされており、別にハガキ一通が蔵されているという。この二通は『石川啄木全集』第七巻書簡に収録されているので、文面を知ることができる。

(略)

  • もう一通のハガキは明治四二年六月二日付で実に素っ気ない内容。

退院のお知らせの御葉書についでの何日ぞやのお手紙、お喜びも申上げずに日夕を過し候ふうちに胃腸を害して恰度四週間の病院生活を致し、一昨日退院致候、東京は最早スッカリ夏、退院した晩ウッカリして寝冷えをして昨日今日風邪の気味、身心の衰弱にボーツとした頭は、しきりに過ぎし日など思浮べ候、御身は最早や全く健康を恢復せられ候や

  • 智恵子が退院後、待ちわびていた手紙である。だが、この内容で、しかも東京帝国大学十五周年記念の写真葉書ときては、智恵子は啄木の入院を気遣いつつも拍子抜けしたことであろう。
  • これで終わった。

(略)

  • 智恵子にも淡い恋心に似た感情の動きがあった。病床にあって、母親にまでねんごろな手紙をもらった。退院後のつれづれのなかで恋心ふうなときめきもあった。それを智恵子がほんの少し見せたとたんに、啄木のほうは退いてしまった。

(略)

  • 自分のほうが退いたのに、歌では自分の一方的な片恋にしてしまったのである。少し格好よく見せているが、男の身勝手さが感じられる。「忘れがたき人人二」はいうまでもなく文学的虚構の世界なのである。

 

(門屋光昭 『啄木への目線 ─鴎外・道造・修司・周平─』 洋々社 2007年)

 

(つづく)