〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「林檎  <4>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<4>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

札幌市東区・橘家庭園の「林檎の碑」
<碑陰>

  • 札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる
  • 仁は明治十七年春 苗木妻戸籍を携へ此地に住付き栽培す 適地で順調に生育せる樹は明治二十三年より結実初めて販売す 橘林檎園の誕生なり
  • 昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す 仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びて此の碑を建立す

昭和六十一年(一九八六年)九月 橘忍誌

 

(浅沼秀政 『啄木文学碑紀行』 白ゆり 1996年)

 


 

  • 啄木が函館の小学校で代用教員をした頃に、一緒に勤めていた橘智恵子を詠んだ一首です。
  • 智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいました。啄木は函館の小学校を辞めて、札幌の新聞社へ赴任する前日、智恵子を訪ねました。そして二時間ほど語り合い、智恵子に惹かれていく自分を感じていました。智恵子の実家の話を聞いたのもその時かもしれません。

石川啄木記念館 『啄木歌ごよみ』 財団法人石川啄木記念館 平成12年)

 


 

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  • 東京時代の啄木はその理想とする精神的な恋愛の対象として、常に智恵子の面影を思い浮かべ、彼女に対する切ない思慕を歌うことによって、一つの甘美な自由世界をつくりあげ、そこに逃れることによって、都会での苦しい現実を忘れようとしたのである。
  • 弥生小学校時代彼女と一緒に教鞭をとった疋田梅井は、そのころの思い出を北海道歌志内小学校教諭林義実氏に次のように語っている。
  •  橘さんは私達の間では、知恵さんの愛称で呼ばれていました。とても気持のやさしい方で、子供たちをよく可愛がり、よい授業をなさつていたようです。
  • 啄木はたしか田沢幸吉先生がやめられた代りにはいつてこられたようで、何時も黒紋付に袴という格好で学校にきておられましたが、二年の女子クラスの担任であつたので、女の先生方とは話す機会が多かつたようです。私どもでは一番高橋すえ先生が啄木に感心をもつていたようで、いろいろと噂さしていました。橘さんと啄木とは交際はなく、函館を去られるとき、一度だけ訪ねてこられて二時間ばかり話し込み、御自分の本を橘さんにデジケート(献呈)されていたのを覚えているていどです。

(岩城之徳 『人物叢書 石川啄木』 吉川弘文館 2000年)

 

(つづく)