ダリア<3>
-啄木の歌に登場する花や木についての資料-
ダリア
放たれし女のごとく、わが妻の振舞ふ日なり。
ダリヤを見入る。
- 「ダリヤ」の華麗なイメージが、「放たれ」、「振舞ふ」、躍動することばと映し合い、夫の妻への微かな関心が暗示される。あるいは「ダリヤ」に妻の姿を重ねる夫の心のありさまを暗示する。
- 「放たれし女」のように振舞う妻の傍らで、ダリヤの花に見入る夫の視線の暗さを指摘したことを想起すれば、その〈暗さ〉の内実にアプローチする詠みのあれこれの考え方を明らかにしているのである。
- 啄木の「放たれし女のごとく、…」歌一首に込められた、孤独な内的語らいに耳傾ける困難は、以上駄弁のさまざまな寄り道によっても把握は十分ではない。とどのつまりは、余人の想像を越えたところに男・女の真実がある、と言えば非難を受けるか。
(上田博 『石川啄木 抒情と思想』 三一書房 1994年3月)
- 「放たれし」の解釈をめぐって諸説があるが、岩城説の通り「離縁された女」とみるのが当をえている。
- 節子はもはや無条件に啄木を信じ受容する人ではない。「鏡」としての節子の役割は終った。一人ダリヤに見入る啄木に亀裂は充分意識されている。おそらく赤いダリヤの花は、妻とは異なる別な女性の暗喩である。もはやそれは実在の女性であることを要しない。たとえば詩集「呼子と口笛」の「激論」でうたわれる「若き婦人」のような、理想的女性の面影だったかも知れない。
- 自己の鏡像を失った恐怖は、啄木をあれほど動転させたけれども、戻った節子が、啄木のアイデンティティを強固に回復させてくれる「鏡」では、もはやないことを啄木は悟らざるをえなかった。「鏡」の代替物は “言葉” である。
(中山和子「節子という『鏡』」 国文学「解釈と鑑賞」 1994.10)
- 森鴎外の「追儺」(1909.5)から。「此頃囚はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。」鴎外のこの「断案」こそ小説に関する「放たれた」思想ということになる。
- 夏目漱石の1910年(明43)10月31日の日記にダリアについての感想がある。「花弁の乱れた具合も丸で大輪の花である。色は赤、薄紅、黄等である。何となく下品で菊とは較べられない。」
- 菊を愛しダリアに嫌悪感を示した漱石とある日の妻の振舞いに「放たれし女」を連想しそれにダリアのイメージを重ねる啄木との対比は興味深い。
- なお次の一首は姦通罪で投獄される直前を詠んだ北原白秋の作(『桐の花』)。「君」は人妻松下俊子。
君と見て一期の別れする時もダリヤは紅しダリヤは紅し
(近藤典彦 「啄木の歌 新鑑賞50首」 「國文學」 學燈社 1998.11)
(つづく)