〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「ダリア <2>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

f:id:takuboku_no_iki:20201008141909j:plain

ダリア<2>

-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

ダリア
     放たれし女のごとく、

     わが妻の振舞ふ日なり。

      ダリヤを見入る。

 

 

  •  ふれあわない夫婦の感情の齟齬をよんだ一首。寄り添わない気持を抱いて振舞う妻と、それを意識にもちながら黙々とダリヤの花を見つめている夫と。
  • もともと、岩城氏によると、この歌は44年6月の作と推定され、たまたま妻節子が事をはかって帰郷をねがい出たことからトラブルが生じた時期を背景としている。
  • 妻が郷里に帰省するのを諦め(実は父母の北海道移住を見送るためであった)、「出てゆかなかつた」とすれば、表面上の日々は再び日常の軌道に乗って行ったに違いない。しかし、作者の目には「生活の方法」としての存在、愛着・哀憐と表裏した別の女の姿も映じているのではなかろうか。病者特有の鋭くなった心の反応を思わせる複雑な歌といえよう。

(本林勝夫 『悲しき玩具』鑑賞 「國文學」 學燈社 昭和53年6月臨時増刊号)

 


 

f:id:takuboku_no_iki:20201008141705j:plain

 

  • ある日の啄木夫妻の微妙な関係を歌ったもの。
  • 啄木は明治42年6月16日、函館より家族を迎えて本郷の喜之床で新生活を始めるが、狭い二階の間借り生活は、啄木の母と妻の不和を助長し、また妻の節子は北国での無理な生活がたたって、身体の不調に苦しむのである。
  • この年10月2日に突然家出し、娘の京子を連れて盛岡の実家に帰ってしまった。さすがの啄木はこれには驚き、「かかあに逃げられあんした」と金田一京助の下宿に駆けつけ、善後策を協議した。
  • 妻の書き置きには「私故に親孝行のあなたをしてお母様に背かしめるのが哀しい。私は私の愛を犠牲にして身を退くから、どうか御母様の孝養を全うして下さる様に」と書かれていた。
  • さいわい、この事件は金田一と盛岡高等小学校の恩師新渡戸仙岳の奔走で解決し10月26日、無事啄木のもとへ帰ってきたが、この妻の家出の彼に与えた影響は大きく、その生活と文学の重要な転機となった。

(岩城之徳・後藤伸行 『切り絵 石川啄木の世界』 ぎょうせい 昭和60年)

 


 

f:id:takuboku_no_iki:20201008142229j:plain

 

  • 「ダリヤ」は女性にとって狂おしい情念の花であり、囚われた女から放たれた女への変貌のイメージを喚起させるものであった。
  • 「ダリヤを見入る」夫と「放たれし女」のごとき「わが妻」との関係は、いわば向背のまなざしによって厳然と相対化された家庭悲劇の意味を自己のめざす社会変革の暗部としてとらえなおすことを啄木に求めることになった、ということだけは強調しておきたい。

(太田登 『啄木短歌論考 抒情の軌跡』 八木書店 1991年3月)

 


 

f:id:takuboku_no_iki:20201008142331j:plain

 

  • 今日の啄木と節子との間には、夫婦の絆の切れた男と女の間しかありません。ことばを交わすことのできぬ妻は、たしかに離婚を申し渡された女のように、黙々と家事を処理するだけです。啄木は一面でそうした妻に同情し、また、一面で憎らしくも思います。そして、どうしようもない思いのまま、そこに咲くダリアの花にじっと目を向けるだけなのです。
  • 夏から咲くダリアの花は、当時としてはモダンな花であったでしょう。あざやかな大輪の花ダリアは、心の揺れる啄木の目を吸いこむのにふさわしいものであったにちがいありません。「ダリアを見入る」啄木の心境を、私たちは思いのまま想像してよいと思います。

(遊座昭吾 『啄木秀歌』 八重岳書房 1991年10月)

 

 (つづく)