〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <12>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <12>

 

(「啄木の息HP 2000年」からの再掲 + 2019年初夏 )

・写真について:撮影年が記されていないものは2000年撮影

 

現在(2019年)から遡ること約20年)

 

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寺田寅彦記念館


この後に行った寺田寅彦記念館の方に、「啄木の父終焉について、ご存知でしたら教えて下さい」と、お聞きしたら資料を探してくださった。

そこには、こう書かれていた。

 

 
【五台山・東部地区ガイドブック】より抜粋

啄木は、1912年(明治45)に亡くなったが、一禎はその前から次女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のもとに身を寄せており、その転勤にしたがって各地をまわった。

山本は、1924年(大正13)11月、高知駅開業にあたって、高知出張所長として赴任したので、一禎も山本夫妻、養子の勝重とともに高知に来て、所長官舎に住んだ。高知ではあまり外出することもなく、平穏な生活を送ったようであるが、3年後の1927年(昭和2)2月20日、この官舎で78歳の生涯を閉じた。

かつての所長官舎の場所は、現在高い鉄塔の建っているところの南側と碑に書かれているが、元国鉄職員によれば鉄塔の東側ともいう。

一禎の遺骨は、函館立待岬の啄木一族の墓に納められている。また、十五代住職を勤めた渋民の宝徳寺にも墓がある。

一禎の没後、一禎作の3800余首の和歌を収録した “みだれ芦” と題する歌稿が見つかり、函館の遺族の元に送られたといわれる。おそらく高知で詠まれた歌もあろうが、門外不出となっていて、確認できないという。

 

【五台山・東部地区ガイドブック】

 発行者 高知市観光課 

 編著 土佐観光ガイドボランティア協会

 発行 1995年2月25日

 

 

 

 


高知から帰ってからボランティア協会にお礼状を差し上げたら、丁寧なお便りと資料を送ってくださった。

お便りには「啄木の父のことは高知の観光バスガイドも話をしておらず、ボランティアガイドの特ダネとして10年ほど前から、特に岩手、宮城方面からのお客様に案内をしている。岩手の人などからは、『高知に来て啄木の話を聞こうとは思わなかった』『父の話は初めて聞いた』とか割合好評だ」と書かれてあった。

 

 

 

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山本千三郎氏邸にて

父一禎との集合写真


高知駅長官舎の庭
 1925年(大正14)11月8日

『一枚の集合写真』という高知新聞の学芸欄には、所長官舎の庭に並んだ記念写真が載っている。「鼻下に白い髭を蓄え」「快適な晩年を送った」白髪の老翁、父一禎が前列右端に写っている。(右から3人目が啄木の姉、とら。後列右端がとらの夫、千三郎。その隣が千三郎の長男、勝重。)

また、『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。

(この資料等をお送り下さった方は、土佐観光ガイドボランティア協会会長の岩崎義郎さんです。南国高知のガイドを無料でしていらっしゃいます)

 

 『啄木を繞る人々』

吉田孤羊著『啄木を繞る人々』の中で、著者は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞き「その臨終はまるで文字通り眠ったままだった」と書いている。

また北海道の啄木の娘、京子から“みだれ芦”を見せてもらったときのこともあり、「何れも一度使い古したやうな日本紙の帳面を、裏返して丁寧に綴じ込んだもので、中には歌ばかりでなく、啄木の追悼会の新聞記事などまできれいな筆跡で写されて」あったという。

自慢の一人息子が26歳の若さで亡くなり、「塵の世と思ひ捨ててもさらばとて移り住むべき所だになし」と歌った父。

母カツは、啄木の「名声が今日ほど高くなるとは夢にも知らず永眠され」たが、父は「世に広く謳わるるわが子の名を充分耳にして亡くなられた」とある。

 

 

 

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鉄塔の下

この鉄塔の下が父一禎終焉の地。

 高知駅側から撮影している。写真の左側が鉄道線路。

 

 

(つづく)