〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

四万十市「幸徳秋水碑」から 高知市「石川啄木碑」へ <13>

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

四万十市幸徳秋水碑」から 高知市石川啄木碑」へ <13>

 

啄木の父・石川一禎終焉の地に歌碑を建てる

 

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原石に歌を貼る

歌を貼った原石(2009年)

(撮影・「建てる会」呼びかけ人の岡林一彦さん)

 

 

1992年

土佐で逝った啄木の父   国見純生
     

啄木の父、石川一禎が高知市北本町2-7-45にあった高知鉄道局の官舎において、数え年78歳で生涯を閉じた。これらのことは知っていたが、その終焉の地を確認してはいなかった。

先ごろ、このことに関心をもちはじめた門田豊氏とその地の調査をはじめたが、元国鉄四国支社課長の岩崎巖松氏のご協力を得て、この地は「JRアパートの西隣に建っている高い鉄塔の位置であることが分かった。去る8月31日に、門田氏とともに鉄塔の前に佇んだことが忘れがたい。

孫嗣子・勝重の妻の妹、稲垣積代は、一禎について「炬燵にはいっていつも歌を書いていた様子を思い出します」と記している。また、「官舎ではお会いしたが、外出姿は見かけなかったと当時の方々が語っていました」(岩崎巖松談)。「気の弱いやさしい人でした」(金田一京助談)。

明治45年4月、啄木の臨終に駈けつけた若山牧水は「老父もまた痩せて淋しい姿の人であった」。一禎が一枚の紙に、「母ゆきていまだ中陰(註・四十九日)も過ぎぬにその子また失せにければ」という前書きと「さきだちし母をたづねて子すずめの死出の山路を急ぐなるらむ」の歌を書いて示したと記している。

わたしは、歌人仲間とはかって、この地に「石川啄木の父、一禎終焉の地」の標柱を建てたいと考えている。(高知県歌人協会会長)

(1992.9.28 高知新聞 月曜随想 (啄木・一禎の歌碑 建立報告書))

 

 

 

 

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除幕を待つ

除幕を待つ歌碑(2009年9月)

(撮影・岡林一彦さん)

 

2009年5月

「啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てるための趣意書」(抜粋) 

 

啄木の父 石川一禎は、岩手県渋民村(現・盛岡市)の宝徳寺の住職でしたが1904年、宗費滞納との理由で罷免されました。

一家離散となり、一禎は啄木の姉とら夫妻の許に身を寄せました。とらの夫の山本千三郎が鉄道官吏であり高知出張所長を命ぜられたため、高知に来て共に晩年を過ごし、高知駅近くにあった所長官舎で1927年2月20日に76歳の生涯を閉じました。一禎は和歌に親しみ四千首近い歌稿「みだれ芦」を残しています。

この啄木の父一禎の終焉の地に1992年12月高知県歌人協会が「啄木の父 一禎終焉の地」の標柱と官舎跡にプレートを設置しました。その後、高知駅周辺の再開発に伴いこの標柱とプレートは撤去されています。

この度、高知駅前の再開発・整備が終了しようとするこの時期に、この地に一禎を偲ぶよすがとして「石川一禎終焉の地」の表示と啄木・一禎の歌を刻んだ父子碑を新たに建立することを切望する次第です。先の4月23日に岡崎誠也高知市長へ陳情致しましたところ、幸い高知駅前広場に適切な用地を提供していただくことが出来ました。

以上の趣旨をご理解いただき、歌碑建立のために何卒あたたかいご協力を賜りますようお願い申し上げます。

 

2009年5月

「啄木の父 石川一禎終焉の地に歌碑を建てる会」

 ・会長 高橋正 副会長 猪野睦 西岡瑠璃子 事務局長 梶田順子
 ・呼びかけ人 120人

 ・完成予定 2009年9月
 ・設置場所 高知駅前広場南側 緑地帯内「官舎跡地」の約百メートル西南
 ・資金目標 300万円

 

 

募金超過達成!

募金目標300万円は、個人・団体あわせ928人の方々のご協力で超過達成。
2009年9月12日に除幕式挙行。

 

 

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高知県立文学館

高知県立文学館(2019年)

今年2019年は、建立からちょうど10周年。

それを記念するイベント「短歌大募集」が企画された。2019年7月31日応募締切、2019年9月14日に高知県立文学館で表彰式が予定されている。

 

(つづく)