[シードラゴン]
(つづき)
<その3>
ところで放課後、学級日誌を記入する孝二を、貞夫は今日も教室の片隅で待ち合わせていたが、
「孝やん、ここに、ええのがあるで。」と、歌集のとある頁をゆびさした。
「そうかて、それはどの歌もみなええやないけ。」
顔を上げずに孝二が言った。
「でも、これ特別や。お前はん、このままこの歌を貰とくとええワ。」
それがどういう肌合いの歌か孝二は見当がついた。貞夫が杉本まちえを心に含んで言っているのがわかるからだ。そして、やはり孝二の勘に狂いはなかった。貞夫は帰途につくなり、
摩れあへる肩のひまより
わづかにも見きといふさへ
日記に残れり
と二度くりかえした。
(中略)
そんな孝二は、その夜、“ ゆふべの歌の本を読んできかしてんか " とふでに所望されるや、気軽に頁をあけて、
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
と、ふしをつけてよみ上げた。
(注:ふで=孝二の母)
(中略)
孝二は、こんどはささやくような低声で読んだ。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
(中略)
「でも孝二、これやったら歌や無うて、ほんまの話やないのけ。」
「うん、ほんまの話や。そのほんまの話を歌うてるさかい、これはほんまの歌や。」
「そうかえ。わいはまた、歌というのは花は美しいとよろこんだり、雲はふしぎやと感心したり、日本の国は立派やとほめたりするものやとばかし思うてたがな。」
「昔はそんなのがはやったけど、今はもう古うてあかぬワ。」
「そんなら孝二、文盲のわいが、自分の思いどおりに歌うたら、それ、やっぱり歌け。」
ぬいが言った。
「せやとも。もしお祖母んが草履編みのことを歌うたら、それ、ほんま物やで。」
「あははゝゝゝゝ。こら、えらい事になりよった。」
自分の口から歌がうまれるなどということは、ぬいには天に梯子を架ける類に思えて、爆笑でもせずには気がすまなかったのだ。しかし、“ じっと手を見る " 歌は、生き物のようにぬいの胸底でいきをしていた。ぬいは自分の両手を眺めた。両手は人並より大きく、うまれつき働くことが好きそうなかっこうだ。そして事実この両手は働きに働いた。だが、“ なおわがくらし、らくにならざり " で、ぬいは今も膝に重ねて両手を眺めるひまもない。
(つづく)