〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

茨城県:北茨城市 野口雨情記念館と生家 - 啄木と雨情

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

茨城県北茨城市 野口雨情記念館と生家

 - 啄木と雨情とは同じ床の中に雑魚寝し、身の上話をし親密に付き合う

 

(「啄木の息HP 2008年」からの再掲)

 

1 野口雨情記念館 = 北茨城市歴史民俗資料館

 

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「野口雨情記念館の全景」

北茨城市茨城県の北東の端、太平洋を目の前にしている。かつては炭坑で賑わっていた。

 

 

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 「野口雨情の像」

 

「野口雨情記念館」

○ 1F 展示室 野口雨情関係

・雨情の作品や遺品の数々が展示されている。

・「雨情の里きたいばらき」をPRするレーザーディスクが設置され、きたいばらきの観光、産業、雨情の郷愁など自由に見られる。

・雨情交友録として、中山晋平本居長世西条八十北原白秋などに並んで石川啄木が紹介されている。
「啄木は……北海道に移住し流浪と貧困の生活を送るが、雨情とは、小樽日報の創業に参加し、同僚として働いて親交を深めた。……」

○ 2F 展示室 北茨城市の歴史や民俗資料

・基幹産業であった炭鉱関係資料では、話題をよんだ映画「フラガール」のポスターなどとともに実際に炭坑を掘った機具が多く展示されていた。 

 

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「野口雨情と『青い目の人形』展」

アメリカからの「青い目の人形」、日本から送られた「市松人形」
その平和への願いや友情、雨情の唄に込められた思いを少年少女は
どのような思いで受け止めたのでしょうか。(「人形展」パンフ) 

 

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「窓から見える太平洋」

 

 

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北茨城市の紹介マップ

・「現在地」の赤い表示が「野口雨情記念館」、海のすぐ隣にあるのがわかる。記念館の下に「野口雨情生家・資料館」の文字が見える。

 

2 野口雨情生家・資料館

・「野口雨情生家資料館」は、「野口雨情記念館(北茨城市歴史民俗資料館)」とは別にある。

 

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・看板の矢印方向に曲がるとすぐ生家が見える。国道をそのまま写真の左に進むと「野口雨情記念館」がある。

 

 

 

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「駐車場から見る野口雨情生家」

・板壁の中央やや左に寄ったところに門がある。

 

 

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「門の脇のパネル。門内の正面が資料館」

 

・門の脇には野口雨情の年譜と写真が一覧できるパネルがあった。啄木に関しては、「明治40年(1907)25歳(雨情)10月 石川啄木と共に『小樽日報』の創業に加わるが、約1ヶ月で退社。」と書かれてあった。

 

 

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「立派な構えの生家」

 

・「野口雨情は、1882年(明治15)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)のこの家に父量平、母てるの長男として生まれ英吉と名付けられた。家は木造二階建て瓦葺きで明治の始めに建てられたもの。雨情は15歳で上京するまでこの家で育った。

・生家は、かつて水戸徳川家藩主の御休息所で「観海亭」とか「磯原御殿」とも言われた。家業は廻船業。父は村長を務めたこともある。ここには、現在も家族の方が生活している。

 

 

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「資料館」

・生家の隣に「雨情生家の館」という名の資料館が併設されている。1999年(平成11)6月に新設、数々の資料を展示している。

・雨情は明治39年樺太に渡る。明治40年7月、北海道へ渡り、「北鳴新聞」の記者となる。9月、石川啄木と親交を結ぶ。(資料館「野口雨情年譜」より)

 

○ 特別展「野口雨情と石川啄木国民文化祭協賛企画展

ちょうど特別展が開催されていた。

・展示写真としては、野口雨情のもの、石川啄木金田一京助の二人が並ぶもの、小樽日報社跡のものなどがあった。

・啄木カルタ「少女の友」(新年号付録 絵 中原淳一)の展示。

掲示「出会いから別れまでの205日(明治40.9.23ー41.4.14)、北の大地で育まれた友情」と題した北海道地図と説明文。

・明治41.2.17 「啄木から雨情への書簡」

お別れいたし候ふてより三旬にもなんなんとするに未だ一度の消息をも差上げずとは抑々何事に候ふべきぞ、……。

只今社には編輯局五人、三月初め機会着次第普通四頁の新聞とするとの事に御座候、当地にまゐつてよりはまだ一度も喧嘩不致候、主筆氏も好人物にて万事私の我儘を許しくれ候、釧路は新聞記者的に云へば将来誠に有望にして且つ面白き事多き町に候、……。
二月十七日夜 啄木拝
野口雨情様 御侍史

(『石川啄木全集』第七巻 筑摩書房

・明治43.1.1 啄木から雨情への年賀状

謹賀新年

・野口雨情と出会った日の啄木日記

筑摩書房版「石川啄木全集・第5巻」より

明治四十丁未歳日誌

九月二十三日
…… 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。……

十月一日
 遂に神無月は来れり。
 朝野口雨情君の来り訪るゝあり、相携へて社にゆき、白石社長及び社の金主山県勇三郎氏の令弟中村定三郎氏に逢へり。編輯会議を開く。予最も弁じたり。列席したる者白石社長、岩泉主筆、野口君、佐田君、宮下君(札幌支社)金子君、野田君、西村君と予也。予は野口君と共に三面を受持つ事となれり。……

明治四十一年日誌

一月十五日
…… 斎藤君が帰ると奥村君が来た。本田君が来た。野口雨情君が久振りで来た。本田君は別れのつもりで蜜柑をドツサリ買つて来た。野口君は天下の形勢日に非なりだから、東京へ帰るつもりでそれぞれ手紙を出したといふ。見ると着て居る着物はマルで垢だらけ、髯も生え次第になつて居る。自分は何とも云へぬ同情の念を起した。此人の一生も誠に哀れなものである。……

 

 

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「花嫁衣装と道具」生家の展示

・(左の説明文)「ひろさんが明治三十八(1905)年お輿入れの時、持ってきた101年前の花嫁衣装や道具が残っていましたので初公開いたしました。」

・雨情は1904年(明治37)高塩ひろと結婚し二人の子どもの父親になるが、1915年(大正4)ひろと離婚。1918年(大正7)中里つると再婚する。

・1945年(昭和20)1月27日、雨情は疎開先の宇都宮にて永眠、享年62歳。

 

3 野口雨情の詩碑

常磐自動車道 中郷サービスエリア・下り線)

サービスエリアの一角に公園があり、木立や小川や池の所々に雨情の詩碑がたっている。

 

 

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「童謡詩人 野口雨情」についての説明板

野口雨情

・ここ北茨城市は雨情の故郷です。

・この公園に散在する雨情の詩碑は、地元にゆかりのある人々の手で心をこめて揮毫されたものです。

(説明板より)

 

 

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「青い眼の人形」

青い眼をしたお人形は
アメリカ生れのセルロイド

日本の港へついたとき
一杯涙をうかべてた

「わたしは言葉がわからない
 迷い子になったらなんとしょう」

やさしい日本の嬢ちゃんよ
仲よく遊んでやっとくれ

 

 

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「赤い靴」

赤い靴 はいてた女の子
異人さんに つれられて
行っちゃった

横浜の 埠頭から船に乗って
異人さんに つれられて
行っちゃった

今では 青い目になっちゃって
異人さんのお国に
いるんだらう

赤い靴 見るたび考える
異人さんに 逢うたび
考える

 

 

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「赤い靴を奏でよう」

鉄琴のバーをハンマーでたたく。音階になっているのかと思ったら、鉄琴がすでにメロディー通りに並んでいた。左から順にたたくと「♪あ♪か♪い♪く♪つ♪・・」と聞こえてくる。

 

 

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「蜀黍畑(もろこしばたけ)」

お背戸の親なし
はね釣瓶

海山 千里に
風が吹く

蜀黍畑も
日が暮れた

鶏さがしに
往かないか。

 

 

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「シャボン玉」

シャボン玉とんだ 屋根まで飛んだ
屋根までとんで こわれて消えた

シャボン玉消えた とばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風々吹くな シャボン玉とばそ

 

 

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「あの町この町」

あの町この町
日がくれる 日がくれる
今来たこの道
帰りゃんせ 帰りゃんせ

お家がだんだん
遠くなる 遠くなる
今来たこの道
帰りゃんせ 帰りゃんせ

お空に夕の
星が出る 星が出る
今来たこの道
帰りゃんせ 帰りゃんせ

 

 

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「雨降りお月さん」

雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ)さして行く

傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラシャンシャン鈴つけた
お馬にゆられて濡れてゆく

いそがにゃお馬よ夜が明ける
手綱の下からちょいと見たりゃ
お袖でお顔を隠してる
お袖は濡れても干しゃ乾く

雨降りお月さん雲の蔭
お馬にゆられて濡れてゆく

 

4 「野口雨情と石川啄木新潟日報の連載記事より

「啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花」山下多恵子
  第16回(野口雨情と石川啄木の記事より)2008-08-28

・「小樽日報」時代、啄木が最も親密に付き合い、やがて激しく憎み、最後には「悲しい人」として記憶された人物がいた。

・のちに「七つの子」「しゃぼん玉」等の童謡で世に知られることになる、野口雨情である。

・知り合って十日目の日記には「野口君と予との交情は既に十年の友の如し」と書いている。

・……日に何度も行き来し、「共に豚汁を啜」り、「同じ床の中に雑魚寝」をし、互いの「身の上話」を通していよいよ親密の度を増していく。

・……わずか二週間後の日記に啄木は「野口は愈々憎むべし」と書くのである。

石川啄木二十一歳、野口雨情二十五歳--そのとき二人とも無頼だった。伸びようとする自分の若さ・可能性と、それを押しとどめようとする家庭・生活--その狭間でいら立つ気持ちが、彼らを捨て鉢にしたのか。

・明治四十年の小樽に明滅した、やみくもな青春--。

 

<おしらせ>

「啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花」新潟日報 連載続行!

山下多恵子氏(長岡高専非常勤講師・国際啄木学会理事)が、2008年5月から新潟日報に「啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花」を連載していた。啄木と郁雨の間柄をきっちりと見つめた連載は10月末、25回でいったん終わった。しかし、たくさんの反響があったため、まもなく「続編」が始まる予定。

 

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雨情作詞「うさぎのダンス」創作人形

 
 

                 (2008年-秋)