◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
宮城県:柴田町 船岡駅歌碑 - 啄木と親しかった苜蓿社の吉野白村のふるさと・船岡
(「啄木の息HP 2007年」からの再掲)
城下町「柴田」にちなみ、城をイメージした城型駅舎。入城するような気持ちで階段を上ると改札口になる。
写真の左側方向が、上り黒磯方面。そのホームに啄木歌碑がある。
・明治四十年函館の夏
……、社に入りて二三日のうちに相逢ひたる初見の友の中に吉野章三君あり、宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有名たる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんといふ、……
(1907年・啄木の日記)
● 船岡と啄木の縁

駅前の表示板「吉野白村のふるさと船岡」
・石川啄木年譜より
1907年(明治40)21歳の啄木は渋民高等尋常小学校代用教員を辞め、5月4日北海道へ渡る。
苜蓿社同人の沢田天峰(信太郎)の世話で、函館商業会議所臨時雇となる。6月には、苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員となる。
・啄木と特に親しい吉野白村
吉野章三(M14.2.24~T7.6.3)は、ペンネームを白村と言い、苜蓿社同人の中でも特に豊かな才能にめぐまれ、啄木の文学の変遷に重要な影響を与えた人物である。そして、彼は苜蓿社同人の中で啄木と特に親しい関係であった、岩崎白鯨、宮崎郁雨、松岡蕗堂、並木翡翠等の中で一番の年長者であり、常に会の運営をリードしていた。
啄木が来道した当時、吉野は函館・東川小学校の教員であり、夫人も亦、宝小学校の教師であった。……
(『啄木と苜蓿社の同人達』目良卓著)

「歌碑の案内表示」
駅構内には数カ所、この案内表示が張ってある。
→の方向に歩いていく。歌碑は、上り黒磯方面行きホームの前方にあった。
● 歌碑建立

「石川啄木歌碑」
右が主碑、左が副碑。後ろのフェンスに記念植樹の説明。フェンス前にハマナスと紅苜蓿が植えてある。
・短歌研究グループ・苜蓿社
北海道と啄木を結ぶ直接の機縁となった苜蓿社は、函館における短歌研究の会であった野薔薇会の同人並木翡翠(武雄)・松岡蕗堂(政之助)・岩崎白鯨(正)・吉野白村(章三)らが、文芸誌刊行の目的をもって明治39年の秋結成した文学愛好者のグループで、彼らの先輩である東京新詩社の同人大島野百合(経男)らが参加してこれを援助した。
苜蓿社の雑誌「紅苜蓿(べにまごやし)」は大島野百合の命名によるもので、明治40年1月1日菊判三色刷の瀟洒な装幀をもって創刊された。

「主碑」
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも
啄木

「主碑の拡大」
・啄木は二男の名付け親
……(白村の)短歌には生活の味がにじみ出ていた。しばらく短歌に遠ざかっていた啄木が、函館時代を契機として作歌活動に入ったのは、苜蓿社同人、ことに白村の影響によるものだろう、と言われている。……
……啄木が函館を去って札幌に向かう日に二男が生まれて、啄木から浩介と名をつけて貰った。啄木は白村のことを「かなしめば高く笑ひき 酒をもて 悶を解すという年上の友」と歌っている。……
(「啄木と函館」阿部たつを著)

「副碑」
「碑文」
ふるさとへの断ちがたい思いを歌につづった石川啄木は、常に日本人の望郷の念をかきたてて止まない作品を多く残した。………この地は直接啄木の足跡はないが朋友である歌人吉野白村が当地船岡の出身でありその時から百年の歳月が流れ、それを記念してここに建立するものである。

「駅名表示 立て看板」
手前の駅名は遠くから見ると「啄木」と書いてあるように見えるが「槻木(つきのき)」、次の駅は「大河原(おおがわら)」。
● 展示コーナー・スタンプ

「展示コーナー」
駅構内の一角に「石川啄木と船岡の人びと」の展示がある。
ウインドウ内の右には、歌碑の拓本が飾られている。
すぐ脇では、電車を待つ人たちが親しげに話をしていた。

「石川啄木を函館弥生尋常小学校の
代用教員に世話した証拠の手紙」
(吉野白村の参男が石川啄木研究の第一人者
吉田孤羊先生に宛てた手紙)
改札口でお願いするとスタンプとスタンプ台を渡してくれた。
捺してみた。右下に「石川啄木歌碑」の文字と歌碑の図柄、左は「船岡平和観音」。

「歌碑の後ろから反対側ホームを見る」
・白村は肺結核のため38歳で他界
「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇」
同人内でも年長であり、長者の風格をそなえていた東川小学校教員の吉野白村は、函館歌壇に清新な息吹を与えたひとりであり、啄木を弥生小学校の代用教員にも世話をしたが、その豊かな人柄と気負うことのない謙虚な姿勢は、啄木の心を強くとらえた。
明治41(1908)年8月、釧路に移り天寧(てんねる)小学校校長となったが、後に教職を辞して鉄道に入り釧路運転所に勤務、肺結核のため大正7(1918)年6月、38歳で他界した。
(函館市史 デジタル版)
(2007-夏)

