〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

東京都:文京区本郷 - 赤心館・蓋平館・喜之床

◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

 東京都文京区本郷 - 赤心館・蓋平館・喜之床

  (「啄木の息HP 2006年」からの再掲)

 

● 啄木の引越した場所・日

  (*参考 「新詩社」 下千駄ヶ谷五四九)

1「赤心館」(現・オルガノ株式会社)
   本郷区菊坂町八十二(現・文京区本郷5-5-16)

2「蓋平館別荘」(現・太栄館)
   本郷区森川町一番地新坂三五九(現・文京区本郷6-10-12)

3「喜之床」(現・理容 アライ)
   本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現・文京区本郷2-38-9)

 

・ 引越した日

1908年(明治41)

4月28日 北海道から横浜を経て東京入り。千駄ヶ谷の新詩社に泊まる。
4月29日 「赤心館」の、金田一の部屋に泊まる。
4月30日~5月1日 千駄ヶ谷、新詩社に泊まる。
5月2日 動坂、平野宅に泊まる。
5月3日 「赤心館」の金田一の部屋に泊まる。二階の部屋が空き、下宿することを相談。
5月4日 千駄ヶ谷から「赤心館」へ引越してくるが、二階は室の掃除が出来ていないため「赤心館」金田一の部屋に泊まる。
5月5日 「赤心館」(現・オルガノ株式会社)本郷区菊坂町八十二(現・文京区本郷5-5-16)の二階、自分の部屋に引越し。

 

----4カ月後----

9月6日 「蓋平館別荘」(現・太栄館)本郷区森川町一番地新坂三五九(現・文京区本郷6-10-12)に引越し。 

----9カ月後----

1909年(明治42)

6月16日 「喜之床-新井こう方」(現・理容 アライ)本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現・文京区本郷2-38-9)に引越し。

 

● 本郷界隈-1

 

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   丸ノ内線 本郷三丁目駅

 東京大学本郷キャンパスの最寄り駅。赤門まで約400メートル。この近くには樋口一葉石川啄木森鴎外夏目漱石など多くの文豪が住んでいた。

 今年(2006年)の受験シーズンに本郷三丁目駅は、応援の気持ちを込め写真に見える白い帆布のような天井や周り全体を、合格のシンボル「サクラ満開」に装飾した。

 

 

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   東京大学赤門」

 現在の東京大学は、もと加賀藩前田家の上屋敷だった。前田家は、1827年(文政10)に徳川11代将軍家斉の娘を妻として迎えた。将軍家から妻を迎える際には、朱塗りの門を建てる習わしだったので、前田家はこの「赤門」を建てた。

 夏目漱石の時代はまだ正門がなく、「赤門」を利用していたという。

 

 

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 「空を写す三四郎池」(東大内)

 加賀百万石前田家の上屋敷の庭園にあった心字池。夏目漱石の小説『三四郎』に登場してから、「三四郎池」と呼ばれるようになった。

 池の水は湧き水である。うっそうと茂る樹木は、大都会の真ん中にいるのが信じられないほど。

  

 

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  「文京一葉会館(法真寺)」

  (文京区本郷5-27-11 法真寺内)

 樋口一葉(1872-1896)は東大赤門前の真向かいに、1876年(明治9)~1881年(明治14)、4歳から9歳になるまでの5年間住んでいた。父が当時の金額、550円で購入した大きな屋敷だった。屋敷には土蔵や池があり、大きな桜の老木もあった。

 一葉は晩年「 桜木の宿 」と呼んで懐かしんでいる。現在、敷地跡隣地に建つ法真寺が管理する私設「一葉会館」がある。

 

 

『ゆく雲』樋口一葉

 上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内廣々と桃櫻いろ/\植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの觀音さま濡れ佛にておはします御肩のあたり膝のあたり、はら/\と花散りこぼれて前に供へし樒の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢卷の上へ、しばしやどかせ春のゆく衞と舞ひくるもみゆ……

青空文庫

 

 毎年11月23日には、「文京一葉忌」が催される。

  

啄木住居-1
  
「赤心館跡(オルガノ株式会社)」

 

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「赤心館跡(オルガノ株式会社敷地内)

(現文京区本郷5-5-16)

1908年(明治41)4月末、単身上京した啄木は本郷菊坂の金田一京助の下宿「赤心館」(現在・オルガノ株式会社地)に同宿する。

 

石川啄木・明治四十一年日誌

五月五日

 節 句。

 起きて二階に移る。机も椅子も金田一君の情、桐の箪笥は宿のもの。六畳間で、窓をひらけば、手も届く許りの所に、青竹の数株と公孫樹の若樹。浅い緑の色の心地よさ。

 晴れた日で、見あぐる初夏の空の暢やかに、云ふに云はれぬ嬉しさを覚えた。殆んど一日金田一君と話す。

 本田君、奥村君、向井君、小嶋君、宮崎君、せつ子へ葉書。岩崎君へ″緑の都の第一信″を書いた。

 京に入つて初めて一人寝た。″自分の室″に寝た。安々と夢路に入る。

五月八日

 快よく目をさます。晴れたる空に少しく風立ちて、窓前の竹のさやらぎが、都の響と共に耳に入る。ああ、此千万の声と音とを合した、大いなる都の物音! 朝な夕なに胸の底まで響く、頭の中を擽ぐる様に快い。此物音と共に、今我が心には、何かしら力に充ちた若き日の呼吸が、刻一刻に再び帰つて来る様な気がする。

六月二十四日

 昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。

六月二十五日

 頭がすっかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。

 1か月ほどの間に、「菊池君」、「病院の窓」、「母」、「天鵞絨」、「二筋の血」、「刑余の叔父」の6作品、300枚を脱稿する。しかし、売り込みに失敗。煙草銭にこと欠き、原稿用紙、インクもなくなるほど生活に困窮する。下宿代の督促はますます急を告げる。

 

 

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「文京区教育委員会の説明板」『啄木ゆかりの赤心館跡』

啄木ゆかりの 赤心館跡」 オルガノ株式会社(本郷5-5-16)内

 石川啄木 (1886~1912) は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後、金田一京助を頼って、ここにあった“赤心館”に下宿し、執筆に励んだ。

 赤心館での生活は4ヶ月、その間のわずか1ヶ月の間に『菊地君』『母』『天鷲絨』など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。

 しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。このようななかで、数多くの優れた短歌を残した。収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿、“蓋平館別荘” に移っていった。

 

 たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず

      (赤心館時代の作品)

 

文京区内の啄木ゆかりの地

・初上京の下宿跡 (明治35年11月~36年3月) 現・音羽1-6-1
・再度上京の下宿跡 (明治37年10月~同年11月) 現・弥生1-8あたり
・蓋平館別荘跡 (赤心館  ~明治42年6月)現・本郷6-10-12 太栄館
・喜之床 (蓋平館  ~ 明治44年8月)現・本郷2-38-9 アライ理髪店
・終焉の地 (喜之床  ~ 明治45年4月13日死去)現・小石川15-11-7 宇津木産業

     東京都文京区教育委員会 平成元年 3月

 

啄木住居-2
   「蓋平館別荘跡(太栄館)」

 

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「太栄館の屋根に ふとん フトン 布団…」

(文京区本郷6-10-12)

 貧窮に喘ぐ啄木を救うため、愛蔵の書籍までも処分した金田一京助の厚意により、本郷区森川町1番地新坂三五九(現文京区本郷6-10-12)の蓋平館別荘に移る。

 

石川啄木・明治四十一年日誌

九月六日

金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。

予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言って、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!

午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは担かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。

 三階の北向の部屋に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる。

 

 

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「この三階が“珍な間取の三畳半”」

九月八日

早起。今朝は寒暖計六十六度に降つてゐた。大きな蚤を捉へて三階の窓から投げる。秋風に弄ばれて、見えなくなつた。肌寒を感ずる。

 九番の室に移る。珍な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、沓かに小石川の高台に相対してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、絶間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。晴れた日には富士が真向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。

 

 

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「太栄館のロビー&中庭を挟んで客室」

 11月には『東京毎日新聞』に「鳥影」の連載を開始し「赤痢」を脱稿する。
 年が明けて、1909年(明治42)2月末には、東京朝日新聞社に校正係として採用決定される。

 

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「蓋平館別荘跡の歌碑」

石川啄木由縁能宿

「東海乃小島能磯の白砂に 我泣き怒れ天 蟹登たわむる」

  

「啄木文学碑紀行」浅沼秀政

 蓋平館は昭和十年ごろ太栄館と名称が変わり、その建物は昭和二十九年に失火で焼けた。新しい太栄館の玄関脇に歌碑が建てられたのは昭和三十年三月十日である。揮毫は金田一京助博士。

 

● 本郷界隈-2

 

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  「『本郷菊富士ホテルの跡』の記念碑」

   (本郷5-5 オルガノ敷地内) 

 菊富士ホテルは、岐阜県大垣出身の羽田氏によって、「菊富士楼」(下宿)として開業し、1914年(大正3)に5層を新築、菊富士ホテルと改名した。1945年(昭和20)3月の東京大空襲によって消滅するまでに、多くの文士や芸術家が集まった。

 宿泊者は、竹久夢二大杉栄菊池寛谷崎潤一郎尾崎士郎宇野千代宇野浩二直木三十五三木清広津和郎正宗白鳥宮本百合子石川淳坂口安吾、といった当時を代表する人々だった。

 

 

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  宮沢賢治旧居跡」(右中央が説明板)

  (文京区本郷4-35-4) 

宮沢賢治旧居跡」(文京区教育委員会の説明板)

宮沢賢治 [明治29年 (1896) -昭和8年(1933)] は詩人・童話作家花巻市生まれ。大正10年 (1921) 1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。菜食主義者馬鈴薯と水の食事が多かった。

 東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』に収められた「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。

 8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。

     文京区教育委員会 平成9年3月

 

 

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  金田一京助・春彦 旧居跡」

   (本郷四丁目11-6)

 写真左側の家の下、石垣のところに文京区の説明板が立っている。

 

金田一京助・春彦 旧居跡」(文京区教育委員会の説明板)

 金田一京助言語学者)は、明治15年(1882)岩手県盛岡に生まれた。東京大学言語学科卒業後、昭和17年(1942)から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民俗の研究を始めた。アイヌに関る多くの著書は、日本列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。これら数々の功績により、昭和29年には、文化勲章が授与された。

 盛岡中学時代、2年下級に石川啄木が在籍していた。啄木は中学を卒業後、盛岡から上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。

 金田一京助の長男、春彦(国語学者)は、大正2年(1913)ここ本郷の地で生まれた。東京大学国文学科を卒業後、名古屋大学東京外国語大学上智大学などで教鞭を執った。

文京区教育委員会  平成16年3月  

 

金田一京助氏は、1971年(昭和46)89歳で亡くなる。
金田一春彦氏は、2004年(平成16)91歳で亡くなる。

 

啄木住居-3
  
「喜之床跡(理容 アライ)」

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「喜之床(理容 アライ)」

(現文京区本郷2-38-9)

 1909年(明治42)6月16日 啄木は,妻、子、母を上野駅に迎える。本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現文京区本郷2-38-9)の新井こう方(喜之床)二階二間の間借り生活が始まる。

 この日の朝のことを記して「ローマ字日記」は終わる。

 

石川啄木「ローマ字日記」

  HATSUKA KAN.

(TOKOYA NO NIKAI Nl UTSURU NO KI. )

HONGO YUMI-CHÔ 2 CHÔME
18 BANCHI ARAI (KINOTOKO) KATA


 16 nichi no Asa, mada Hi no noboranu uchi ni Yo to Kindaichikun to lwamoto to 3 nin wa Ueno station no Platform ni atta.  Kisha wa I jikan okurete tsuita.  Tomo, Haha, Tsuma, Ko ……… Kuruma de atarashii Uchi ni tsuita.

 

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啄木ゆかりの 喜之床跡」「文京区教育委員会の説明板」

 石川啄木は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5-15・現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心(せきしん)館に金田一京助を頼って同宿した。

 わずか4か月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。やがて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年(1909)の6月であった。

 五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑のいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。

 喜之床での生活は2年2か月、明治44年8月には、母と妻の病気、啄木自身の病気で、終焉の地になる現小石川5-11-7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして、8か月後、明治45年(1912)4月13日、26歳の若さでその生涯を閉じた。

 喜之床(新井理髪店)は明治41年(1908)の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年5月(1978)啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和55年(1980)「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得てこの地に標識を設置した。

   かにかくに渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川

(喜之床時代の作)           

文京区教育委員会 平成4年10月    

 

(2006-秋)   

 

主要参考資料
・「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996
・「石川啄木全集」筑摩書房 1983
・「文学散歩 本郷コース 栞」構成・佐藤勝 国際啄木学会東京大会 2006
・「石川啄木」文京区立小石川図書館パンフレット
・「新潮日本文学アルバム 石川啄木」新潮社 1993