千葉大学院園芸学研究科・園芸学部 松戸キャンパス
「与謝野晶子の歌碑を訪ねて」
晶子の歌碑 碑隠
千葉大学園芸学部創立百周年を記念して
平成21年11月1日
・松戸市民を中心に、「与謝野晶子の歌碑を建てる1,000人の会」設立。
・与謝野晶子が松戸の丘で詠まれた短歌60首のなかから2首が選ばれた。
左下に歌碑の表が見える。
すぐ右の木の下に説明板が立つ。
丘の上雲母の色の江戸川の
見ゆるあたりの一むらの罌粟
うすものの女の友を待ちえたる
松戸の丘のひなげしの花
晶子
(雲母=きらら 罌粟=けし)
与謝野晶子歌碑
大正13年初夏、近代日本を代表する女流歌人・与謝野晶子は、松戸の園芸学校に遊び、短歌60首を詠みました。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会では、園芸学部創立100周年を祝し、平成20年以来、晶子の歌碑を建立する市民運動を展開し、平成21年11月1日に歌碑を建立いたしました。
なお、この歌碑は、晶子来校時に現在のA棟の位置にあった講堂の礎石を使用しています。
この緑あふれる松戸の丘から、文化の華が拡がり咲き乱れることを祈念いたします。
与謝野晶子の歌碑を建てる1000人の会
・啄木は盛岡中学時代に『明星』を読み、与謝野晶子らに影響を受ける。
・1902年(明治35)16歳の啄木は、盛岡中学を中退し、上京。渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪ねる。
・鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語っている。
・晶子は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりした。啄木は晶子を姉と慕う。
・晶子は、啄木が共にいて「性」を意識することのなかった数少ない女性の一人であった。
(「啄木の息」石川啄木 年譜 より