評論 石川啄木の詩「家」論
——〈西洋風のわが家〉と都市居住者 ——
栁澤有一郎(国際啄木学会会員)
一、未完の詩集『呼子と口笛』
石川啄木は晩年、未完の詩集『呼子と口笛』を遺した。世に出たのは死から一年後の『啄木遺稿』においてである。
⚪︎成立までのプロセス
・1911年(明治44)6月15日から17日にかけて、啄木は九篇で構成される詩群をつくり、通し番号を付け、大学ノートに清書。
・同月18日頃、「一」「八」「九」を抜き、残りの「二」から「七」を推敲。
・この六篇は「はてしなき議論の後」という標題で、7月発行の「創作」巻頭を飾る。
・そのあと、詩集をつくることを思い立ち、「創作」稿にさらに手を加える。各詩篇にタイトルを付けたものを大学ノートに清書。
・「家」「飛行機」の二篇を末尾に加え、『呼子と口笛』の形が整う。
二、明治末期の持ち家願望と洋風住宅
詩集『呼子と口笛』におさめられた「家」を眺めてみよう。
家
一九一一・六・二五・TOKYO
今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。
場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構え、
…………
三、都市居住者と埃及煙草
四、都市居住者の夢
石川啄木の詩「家」には、「都市居住者」が思い描く「西洋風」の「わが家」が登場する。「わが家」を希求する姿は当時、富裕層を中心に広まっていた持ち家願望に通じ、そこに描かれた「西洋風」の住宅は、当時、導入されはじめた西洋住宅の類型として見ることが可能である。
そして、「家」のあとには「飛行機」が配置された。「家」から「飛行機」へ何が手渡されたのか。それを解明する仕事が我々に残されている。