〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の生涯  26年と53日の生


[オモト]


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石川啄木 年譜
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 1886年 明治19年 0歳   

  • 2月20日 父一禎が住職をしていた岩手郡日戸村(現玉山村日戸)の曹洞宗常光寺に生まれる。啄木の戸籍名は、「一(はじめ)」。一禎は、僧籍であることを考慮してか、母カツを入籍していず、母は工藤姓のままであった。母の戸籍に「戸主工藤カツ長男私生 一(はじめ)」として届けられた。(1885年10月27日説もある。)

 父一禎は、岩手郡平舘村の農業石川与左衛門の五男。母カツは、南部藩下級藩士工藤条作の末娘。

この日の石川家

父 一禎      生年月日1850年嘉永3年)4月8日 35歳
母 カツ      生年月日1847年(弘化4年)2月4日 39歳
姉 サタ(通称サダ)生年月日1876年(明治9年)8月2日 9歳
姉 トラ(通称とら)生年月日1878年明治11年)11月1日 7歳
(満年齢のとなえ方により、2月20日に母カツだけは、この年の誕生日を過ぎている。)

  • なお、後に妻となる堀合セツ(通称節子)は、同年(1886年)10月14日に南岩手郡上田村(現盛岡市上田)に生まれる。父は盛岡市の士族堀合忠操、母はトキ、第一子長女。

 
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 1887年 明治20年 1歳 (この年の2月20日には満1歳。以下同じ)   

  • 隣村の渋民村宝徳寺十四世住職・遊座徳英の急逝に伴い、一禎は同寺十五世住職となり、一家は渋民へ転住。
  • このため前住職遊座徳英の妻子は寺を出て生活に困窮し、未亡人サメは檀家の佐藤家に、長男は(岩手町)川口の小学校の代用教員に、三男は岩手県北方の御返地の寺へ、四男は遠野近くの達曽部へと、一家離散した。
  • そうした、ある意味では強引な一禎の宝徳寺転住は、後の一禎や啄木の一生にも微妙な影を落とすことになる。

 
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 1888年 明治21年 2歳   

  • 12月20日 妹ミツ(通称光子)生まれる。

 
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 1890年 明治23年 4歳   

  • 一禎、1877年(明治10)3月の火災によって焼失していた宝徳寺本堂を、八方奔走して費用を集め、3年かけて再建する。

 
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 1891年 明治24年 5歳   

  • 5月2日 学齢より1歳早く、渋民尋常小学校へ入学。当時は、現在のような堅固ないっせい入学制度ではなかった。
  • < その昔/小学校の柾屋根に我が投げし鞠/いかにかなりけむ >『一握の砂』
  • 二女トラも同年度入学。
  • 10月21日 長姉サダ田村末吉と結婚。

 
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 1892年 明治25年 6歳   

  • 4月1日 堀合節子、盛岡第一尋常小学校に入学。
  • 9月3日 母カツは、二女トラ、長男一、三女ミツを伴って石川家に入籍し、三人の子は戸籍上石川一禎の養子となる。啄木も以後工藤姓から石川姓となった。

  
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 1895年 明治28年 9歳   

  • 3月 渋民尋常小学校を卒業。卒業時は首席であったと言われる。
  • < そのかみの神童の名の/かなしさよ/ふるさとに来て泣くはそのこと >『一握の砂』
  • 当時、尋常小学校は四年制。渋民には、まだ高等小学校は設立されていない。当時、県内唯一の高等小学校は盛岡にあった。
  • 4月2日 盛岡高等小学校へ入学。校長は新渡戸仙岳。当時、4年生だった金田一京助は啄木の登校するのを見て「この子は幼稚園に行くのを間違って来た」という級友のことばを真に受ける程、可愛い少年だったという。
  • 盛岡市仙北組町の母カツのすぐ上の兄である伯父工藤常象方に寄寓する。

 
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 1896年 明治29年 10歳   

  • 早春の頃、伯父の家から、母方の伯母海沼イエと娘ツエ、孫の慶治の住む盛岡市新築地に移る。イエは、妹のたった一人の男の子である啄木のために出来るだけの援助を惜しまなかった。また慶治は啄木とほぼ同年齢(1歳上)で、良い友だちであった。
  • 3月25日 修業証書授与式。啄木は1年を修了。当時の成績は「善・能・可・未・否」の五段階で示されたが、啄木は「学業善、行状善、認定善」のかなり優秀な成績であった。
  • 4月1日 節子盛岡高等小学校入学。渋民村出身の金谷のぶを知る。
  • 4月4日 始業式。担任は佐藤熊太郎訓導。

 
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 1897年 明治30年 11歳   

  • 3月24日 修業証書授与式。啄木は2年を修了。成績は引き続き「学業善、行状善、認定善」であった。3年担任も佐藤熊太郎訓導。
  • 6月30日から、中学校受験のため、海沼慶治とともに、菊池道太の経営する学術講習会(後予備校江南義塾、私立岩手橘高等学校を経て、現江南義塾盛岡高等学校)に通学。海沼慶治は、体格が良く、啄木がいじめられたときなどいつもかばってやったという。当時の制度として、高等小学校2年次終了で、中学校受験は可能であった。
  • 8月11日 次姉トラ、日本鉄道株式会社勤務の山本千三郎(当時福島県湯本駅勤務)と結婚。

 
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 1898年 明治31年 12歳   

  • 3月25日 盛岡高等小学校修業証書授与式。3年間の成績は、いずれも「学業善、行状善、認定善」。3年間を通して啄木は首席。
  • 4月8日 始業式。啄木は四年次に進級。
  • 4月11日 岩手県盛岡尋常中学校入学試験。
  • 4月18日 128名中10番の好成績で合格。
  • 4月25日 岩手県盛岡尋常中学校入学式。クラスは身長順に甲・乙・丙に分けられ、啄木は丙1年級編入
  • 担任は数学の富田小一郎。
  • 同級に阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一、船越金五郎、伊東圭一郎がいた。
  • 保証人は伯父対月の女婿、米内謙二郎。

 
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 1899年 明治32年 13歳   

  • 3月 1年次修了時成績は、131名中、25番。
  • 4月、岩手県盛岡尋常中学校は、岩手県盛岡中学校と校名変更。2年次進級。やはり身長順に組分けされ、4クラス編成の丁2年級。担任は再び富田小一郎。
  • 堀合節子も、盛岡高等小学校から、私立盛岡女学校2年次に編入する。
  • 夏休みを利用して最初の上京。6月5日、上野駅に転任した次姉トラの夫山本千三郎宅に滞在。上野の杜と品川の海を見て帰る。
  • 11月1日 担任の富田小一郎は、クラスの旅行の会を「丁二会」と呼ぶ。(「丁二会」は、翌年から、級友会に発展した。)
  • 12月20日 蒟蒻版摺「丁二会」の雑誌発行。
  • 啄木と節子は、この年に出会う。

 
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 1900年 明治33年 14歳   

  • 1月 海沼家から、帷子小路長姉田村サダ夫妻の家に寄寓。
  • 3月 2年次修了時成績は、140名中、46番。学業はやや低下。
  • 4月 丁3年次進級。担任は三度富田小一郎。 < よく叱る師ありき/鬚の似たるより山羊と名づけて/口真似もしき >『一握の砂』
  • 4月25〜26日 丁3年級の級長に阿部修一郎、副級長に小野弘吉を選出。
  • 阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一、伊東圭一郎らと、親睦の会を作り、後に「ユニオン会」(ユニオンリーダー巻四を自習するところから名づけられ、しだいに社会情勢や文学についても関心をもつようになった)へと発展する。
  • 5月18日 「丁二会」の雑誌を改め、回覧雑誌『丁二雑誌』発行。翌月2号。
  • 7月18日から、富田小一郎教諭に引率されて級友7名と丁二会旅行として、南三陸沿岸方面への旅行に参加する。
  • 盛岡中学校校友会発足。
  • 11月6日 「丁二会」を「級友会」と改め、啄木は第一部長に選ばれる。
  • この年、上級生の及川古志郎(後に海軍大臣)を知り、与謝野鉄幹の『東西南北』『天地玄黄』の手ほどきを受け、その紹介でやはり上級生の金田一京助を知り、『明星』閲読に便宜を得、与謝野晶子らに圧倒的な影響を受けた。また、野村長一(後の胡堂)などの影響により文学に志す。

 
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 1901年 明治34年 15歳   

  • 2月 岩手県盛岡中学校において、校内職員の軋轢を契機として、3・4年生徒間に校内刷新運動発生。
  • 2月26日 啄木の学級も、担任富田小一郎教諭の説得にもかかわらず、級長の阿部修一郎の指示のもと、ストライキ合流決議。啄木も熱心に参加。
  • 2月28日 啄木・阿部・佐藤二郎起草の具申書を校長多田綱宏に提出。
  • 学内外に衝撃を与えたが、時の知事、北条元利の裁定により収束。大筋において生徒側要求の貫徹。教員は、校長の休職を始めとして、23名中、19名までが、休職、転任、依願退職となった。事件処理結果が、啄木に与えた影響も少なくなかったと思われる。
  • 3年次修了時成績は、135名中、86番。
  • 4月1日 校名が、岩手県立盛岡中学校と変更。丙4年次進級。担任は国語科の西村元主。
  • 学習院教授山村弥久馬が新校長となり、学校側の強硬な生徒指導で校内の自由な雰囲気は一掃される。
  • 5月9日 丁二会解散。
  • 6月25日 古木巌との回覧雑誌『三日月』第3号発行。
  • 7月下旬 友人たち数人と秋田県鹿角地方へ旅行した。
  • 9月7日 『三日月』と瀬川深等の『五月雨』との合併披露。
  • 9月21日 回覧雑誌『爾伎多麻』第1号発行。啄木は「翠江」の筆名で、美文「秋の愁ひ」と短歌「秋草」30首、「嗜好」等を発表。現存する啄木最古の作品。同雑誌は、2号まで発行された。
  • 11月 田村家の転居で仁王小路に移る。
  • 12月3日から翌年1月1日にかけて『岩手日報』に「翠江」の筆名で、友人たちと結成した「白羊会詠草」を発表。啄木短歌で活字となった最初の作品であった。

< 迷ひくる春の香淡きくれの欄に手の紅は説きますな人 > 岩手日報12月3日
なお、啄木が中学校時代に用いた筆名・署名としては、他に「麦羊子・白蘋」等がある。

  • この年、雑誌「明星」(前年4月創刊)のバックナンバーおよび新刊、高山樗牛「文明批評家としての文学者」「美的生活を論ず」「天才の犠牲」、与謝野晶子『みだれ髪』等を耽読、浪漫主義を満身に吸い込む。石川啄木の文学的生涯の起点。浪漫主義文学者としての出発はこの年の遅くない時期と見なしうる。
  • この年、節子との恋愛も急速に進む。

 
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 1902年 明治35年 16歳   

  • 1月11〜12日 「麦羊子」の名で、「『草わかば』を評す」を『岩手日報』に発表する。
  • 4年次修了時成績は、119名中、82番。
  • 3月26日 堀合節子、盛岡女学校卒業し、家事に従事する。
  • 4月 クラスは身長順によらず分けられ、乙5年次に進級。担任は修身・国語・歴史を教える田島道蔵。
  • 4月17日 4年次期末試験において、不正行為があったとして譴責処分。
  • 4月21日 保証人を米内謙次郎から、義兄の田村叶に変更。
  • 5月28日〜6月1日 5年級修学旅行(石巻、松島、仙台方面)に参加。
  • 6月20日 「ハノ字」の名で『岩手日報』に書評「『ゴルキイ』を読みて」を発表する。
  • 7月15日 1学期末試験においても、啄木は友人の狐崎嘉助に代数の答案を見せてもらい、二度目の譴責処分。保証人の田村叶召喚。1学期の成績は、「修身、作文、代数、図画」不成立、「英語訳解、英文法、歴史、動物」不合格。出席104時間、欠席207時間。
  • 9月2日 処分告示。狐崎嘉助は、特待生を解かれた。
  • 10月1日 『明星』第3巻、第5号に < 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 > が「白蘋」の筆名で掲載される。
  • この年、2月・5月・9月・10月と授業料支払いの督促を受けている。
  • 10月27日 当時の盛岡中学校校則からすると、落第は必至であることもあり、「家事上の都合」をもって退学願い提出、持ち回り会議によって退学許可。エリート街道を進んできた啄木の転身の契機の一つとなる。
  • 10月30日 文学で身を立てるべく渋民を出発。途中盛岡にて一泊し、ユニオン会の仲間や節子との別れを経て、上京。「かくて我が進路は開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。雲は高くして巖峯の巓に浮び秋装悲みをこめて故郷の山水歩々にして相へだゝる。・・・」と日記に記す。
  • 11月2日 大館みつ方(当時の小石川区小日向台町)に止宿する。
  • 11月4日 野村薫舟(胡堂)から、「君は、才に走りて真率の風を欠く、・・・着実の修養を要す。」と忠告を受ける。
  • 11月5日 野村薫舟(胡堂)と神田付近の中学校を訪ね、5年編入を照会したが、欠員無く徒労に終わる。
  • 11月9日 細越夏村に連れられて城北倶楽部の新詩社の集まりに出席。初めて与謝野鉄幹に接する。(他に、平木白星、山本露葉、岩野泡鳴、前田林外、相馬御風、前田香村、高村砕雨、平塚紫袖、川上桜翠等14名。)
  • 11月10日 渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子を訪問。以後夫妻の知遇を得る。鉄幹は後年この日の啄木について、「初対面の印象は率直で快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に颯爽とした風采の少年であった。」と語っている。
  • 11月21日 イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の英訳本を購入し、訳述して生活の資を得ようとしたが果たさず。
  • 12月28日 盛岡中学校の後輩の金子定一の厚意で、金港堂に雑誌『文芸界』の編集主任佐々醒雪を訪ね、編集員として就職を希望するが「大繁忙で逢はれない」との取り次ぎの語に面会さえできず、空手で帰る。窮乏の中で年末。

 
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 1903年 明治36年 17歳   

  • 1月上旬 下宿料滞納により、大館みつ方を追われる。京橋付近の鉱業会社に勤務していた佐山某に助けられ、20日ほど神田錦町の下宿に止まる。
  • 2月26日 父に迎えられて東京出発。再起を期して丸善でC・A・リッジーの『Wagner』を買い求める。
  • 2月27日 帰郷。
  • 3月19日 (小林茂雄宛書簡)「・・毎日にがい薬をのんで顔をしかめては砂糖こもりを囓り囓り日を暮して居ると云ふ有様ですから御察しを希上ます、毎日夕刻には薬取方々医師の家迄散歩します・・」
  • 病と傷心とは、故郷の自然と堀合節子との愛によって慰められる。
  • 5月31日〜6月10日 『岩手日報』に石川白蘋の筆名で「ワグネルの思想」を発表するが反響はなかった。
  • 7月1日 『明星』卯歳第7号に載った短歌4首の中に、< ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき > がある。
  • 秋以降、翌年にかけて、アメリカの海の詩集「Surf and Wave」の影響を受け、最初の詩稿ノート『EBB AND FLOW』を作成した。作品352篇の中からアメリカの詩人の作品8、イギリス26、ドイツ3、イタリア1、アイルランド1、不明2、合計41篇を選び、丹念に書き写した。そしてその詩集の影響ののもと、詩作に志し、新境地を開く。
  • 11月1日 『明星』卯歳第11号の社告に石川白蘋等を新詩社同人とするとの発表が掲載される。
  • 12月1日 『明星』に石川啄木の筆名で掲載された「愁調」5編は、新詩社を初めとして多くの注目を集めた。この時が、筆名「啄木」の使用開始である。以後、この詩の好評に自信をえて、啄木の名で精力的に詩作をつづける。

 
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 1904年 明治37年 18歳    

  • 1月8日 友人阿部修一郎の姉梅子の葬儀に参列のため盛岡の龍谷寺に行き、節子に会う。午後姉(田村サダ)の家で夜8時過ぎまで節子と語り、将来を約束する。
  • 1月14日 姉田村サダから、節子との婚約確定の報あり。「待ちに待ちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」『甲辰詩程』
  • 1月14日(葉書)、21日(書簡)From the Eastern Sea 『東海より』によって世界的詩人となった野口米次郎(ヨネ・ノグチ)に「米国行の志望」と新しい病である「渡米熱」を伝える。
  • 2月3日 母カツ堀合家に結納を持参し、堀合節子との婚約成る。
  • 2月8日 盛岡中学校の同級生でカリフォルニア州在住の川村哲郎に書簡にて米国行き志望を書き送る。
  • 3月3日〜19日 『岩手日報』に 「戦雲余録』を8回連載。この時期の啄木の主張は日露義戦論と言ってよいものである。しかし、同年9月5日『時代思潮』に掲載された英文のトルストイ日露戦争論等の影響を受け、好戦思想から、日本と中国、日本とロシアの現実を考えるようになった。
  • 3月31日 節子、岩手郡滝沢村立篠木尋常高等小学校代用教員(裁縫)として採用される。月給5円。篠木の山崎家に寄寓する。
  • 9月28日〜10月19日 上京に先立って北海道行。当時小樽にあった次姉トラ宅(夫山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)等を訪問。詩集刊行資金調達が、その直接の目的であったが、トラが病床にあったこともあり、果たせなかった。
  • 10月31日 処女詩集『あこがれ』刊行のため上京。
  • 12月26日 父一禎、宗費113円滞納のため、曹洞宗宗務局より、住職罷免の処分。以後の啄木の生涯に重大な影響を与えることになるが、啄木はこのことを知らずに年を越すことになる。滞納の原因は、一禎の性分や啄木上京事後処理によるものであるとの説もあるが、確定はできていない。
  • この年、旺盛な詩の発表を行い、『明星』の他にも『時代思潮』(3月、4月、7月、8月、10月、12月)、『帝国文学』(3月)、『太陽』(8月、12月)、『白百合』(6月、7月、9月、11月、12月)等に連続して発表した。

 
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 1905年 明治38年 19歳

  • 1月5日 新詩社新年会に出席。徹宵吟会。(上田敏、馬場狐蝶、蒲原有明石井柏亭、川上桜翠、平出路花、等27〜8名。夜、与謝野鉄幹・晶子夫妻、山川登美子、増田まさ子、大井蒼梧、平野万里、茅野蕭々と啄木の8名。)
  • 1月15日 父一禎の懲戒処分告示。【「免住職・宗費滞納・(12月26日)・石川一禎(曹洞宗宗報第194号)」】
  • 3月2日 一禎、宝徳寺を出て渋民大字芋田に移転。(啄木が処分を知ったのは、3月10日前後か。)処分を知った啄木も深く懊悩する。
  • 4月25日 一禎、盛岡市仁王に本籍を移す。(未確認部分もある。)
  • 5月3日 処女詩集『あこがれ』発行。高等小学校時代の級友小田島真平の兄尚三の厚意により、尚三出征記念として、その経営する小田島書房から発行された。上田敏の序詩と与謝野鉄幹の跋文が付され、装丁は、友人の石掛友造。集録作品数77篇で定価50銭であった。
  • 5月12日 一禎、啄木と節子との婚姻届を盛岡市役所に届け出た。
  • 5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。
  • 新郎である啄木が、節子との結婚式に欠席したといわれているが、真相は明らかではない。
  • 6月4日 盛岡市帷子小路に新居を構える。啄木の両親、妹光子との同居であった。
  • 6月25日 盛岡市加賀野磧町に移る。
  • 8月 ユニオン会の仲間、啄木の同会からの除名を申し合わせる。
  • 8月11日 大信田落花の資金的援助の元に、文芸雑誌『小天地』発行決定。
  • 9月5日 『小天地』〈主幹・編集人石川啄木、発行人石川一禎〉を発行。岩野泡鳴、与謝野鉄幹正宗白鳥綱島梁川小山内薫、平野万里、新渡戸仙岳等の作品を掲載、啄木自身も長詩3編・長歌(小天地巻頭詩)・短歌などを、節子も短歌を発表した。「・・地方の雑誌としては、寄書家に多くの知名の士を有する点や、体裁の整っている点や、主幹啄木の新詩に一種の特色あって誦するに足る点など、侮り難い前途を有してゐるらしく思はれる」と後藤宙外が評価している。
  • 10月11日 (波岡茂輝宛書簡)「・・我も病の身を喞つ夜を重ね・・。この痩腕にて一家五人のいのちをつながねばならず・・」と、生活難が新婚の家庭を脅かしつつあるようすを記している。
  • 10月中旬には、『小天地』第2号の原稿が集まったというが、発行は出来なかった。大信田落花が最も希望していた彼の小説を、2号廻しとしたことは、その一因であろう。
  • 一家の経済状態は次第に困窮の度を加えた。

 
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 1906年 明治39年 20歳   

  • 1月 一禎、野辺寺常光寺の葛原対月のもとに身を寄せる。
  • 2月16日〜21日 一家の窮状打開のため、当時夫が函館駅長であった次姉トラ宅を訪ねるが、不調。(帰りには、野辺寺常光寺に一禎を訪ね、善後策を相談した。)
  • 2月25日 長姉田村サダが結核のために、5人の子供を残して、秋田県鹿角郡小坂町小坂銅山字杉沢にて死去。(夫の田村叶は、当時小坂銅山の塗装工として勤務。)
  • 3月4日 妹光子を盛岡女学校の教師に託し、妻と母とともに渋民に帰り、渋民尋常小学校、盛岡中学校の後輩の齋藤佐蔵の縁で、その祖母に当たる齋藤トメ方に寄寓。
  • 3月23日 宗憲発布による一禎への曹洞宗宗務局の恩赦(3月14日付)通知。
  • 4月7日 岩手郡役所に勤務していた節子の父堀合忠操を通じて、忠操の友人である郡視学平野喜平に就職の斡旋を依頼していたが、渋民村役場に履歴書を提出。
  • 4月10日 野辺地にいた父一禎も渋民に帰還。宝徳寺檀家は、すでに提出済であった代務住職中村義寛の住職跡目願いを撤回して一禎の再住を曹洞宗宗務局に提出。しかし、中村派がこれを無視したため、以後宝徳寺檀徒間に、大きな争いを生む。
  • 4月11日 岩手郡渋民尋常高等小学校尋常科代用教員拝命(遠藤忠志校長の他、教員は、秋浜市郎、上野サメ。啄木の受持は、尋常科第二学年)。月給8円。(学校へ提出した履歴書には、盛岡中学中途退学のことが記されてある。)
  • 4月21日 沼宮内町(現岩手郡岩手町)で徴兵検査。筋骨薄弱で丙種合格。徴兵免除。
  • 6月10日 農繁休暇を利用して、父の宝徳寺住職復帰運動のため上京。新詩社に滞在する。その際読んだ、夏目漱石島崎藤村小栗風葉等の作品の影響を受けて、帰郷後小説家を目指す。「雲は天才である」(7月脱稿、11月修正)。また「面影」を脱稿。春陽堂の後藤宙外、その後、小山内薫に送るが、いずれも返却。
  • 8月7日 「小天地」発刊にからむ大信田落花への負債を、「委託金費消」事件として告発され、取り調べを受けるが、落花の証言によって、不起訴処分になる。
  • 11月17日 節子、出産のため盛岡の実家に行く。
  • 11月19日〜22日 小説「葬列」57枚脱稿。
  • 11月23日〜12月3日 内田秋皎から依頼された盛岡中学校校友会雑誌に掲載予定の評論「林中書」(当代の学校教育を痛烈に批判する評論)脱稿(実際の掲載は、翌年3月)。
  • 12月3日 「葬列」が掲載された『明星』12月号を見る。「葬列」は、啄木の活字となった最初の小説であった。
  • 12月29日 節子の実家の堀合家で、長女京子(戸籍名、京)誕生。(届け出は翌年1月1日)「・・こひしきせつ子が、無事女の児一可愛き京子を産み落したるなり。予が『若きお父さん』となりたるなり。天に充つるは愛なり。」(12月30日、日記)と喜びを記す。 

 
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 1907年 明治40年 21歳   

  • 1月4日 京子誕生を「1月1日午前6時出生」として届け出る。
  • 1月7日 渋民高等尋常小学校第3学期始業式。同日日記には、「予の代用教員生活は恐らく数月にして終らむ。予は出来うるだけの尽力を故山の子弟のためにせざるべからず。」と記す。
  • 1月 函館の同人雑誌『紅苜蓿』(苜蓿社)に「公孫樹」等を発表。
  • 2月 『紅苜蓿』に詩(鹿角の國を憶ふ歌)を発表。
  • 3月5日 一禎、住職再任の前提である滞納宗費弁済の見通しがつかず、再任を断念して、野辺地常光寺の師葛原対月を頼り家出。再住運動は挫折した。啄木の挫折感も深かった。妻節子は、その母に伴われて、誕生した京子を連れて盛岡の実家から帰ってきた。
  • この頃、妹光子も学費に困窮して、盛岡女学校を退学した。
  • 3月20日 啄木も北海道での新生活を決意し、函館の苜蓿社の松岡蕗堂に渡道を依頼した。
  • 4月1日 代用教員の辞表提出。(岩本武登助役や畠山亨学務委員に留任を勧告される。)
  • 4月19日 高等科の生徒とともに、村の南端平田野において、校長排斥のストライキを指示。村内騒擾。
  • 4月20日 遠藤校長、岩手郡土淵尋常高等小学校訓導兼校長に転任内示。(6月5日付)
  • 4月21日 啄木に免職辞令。
  • 5月4日 節子は盛岡の実家、母親は渋民武道の米田長四郎方と一家離散し、啄木は、夫が小樽駅長となった次姉トラ宅へ向かう妹光子とともに渋民を出て、5日函館着。

 啄木は同日の日記に「啄木、渋民村大字渋民十三地割二十四番地(十番戸)に留まること一ケ年二ヶ月なりき、と後の史家は書くならむ。」と記した。
 渡道後、苜蓿社同人たちの厚意で、『紅苜蓿』(「べにまごやし」は、啄木の渡道後、「れつどくろばあ」に名称変更)を編集。

  • 5月11日〜月末 苜蓿社同人の沢田天峰(信太郎)の世話で、函館商業会議所臨時雇として、同議員選挙有権者台帳作成。
  • 6月11日 苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、函館区立弥生尋常小学校代用教員(月給12円)となる。同僚の訓導橘智恵子(戸籍名チエ)等を知る。
  • 7月7日 妻節子、京子とともに来道。青柳町18番地に新居を構える。『紅苜蓿』に短歌を二年ぶりに発表。
  • 8月2日〜4日 野辺地に滞在していた母カツを迎えに行き、函館に連れ帰る。(後、脚気転地のため函館に来た光子を加え、5人となる。)
  • 8月18日 小学校在職のまま、宮崎郁雨の紹介で函館日日新聞社遊軍記者となる。(「月曜文壇」、「日日歌壇」を起こし、評論「辻講釈」を連載。)
  • 8月25日 函館大火。市内の大半を焼く。啄木一家は焼失を免れたが、弥生尋常小学校、函館日日新聞社とも焼失。啄木の小説「面影」を含む『紅苜蓿』8号の原稿も焼失した。
  • 北海道庁から救護活動のために来函中の、苜蓿社同人の大島経男の友人で、『紅苜蓿』寄稿家でもあった向井永太郎(夷希微)に就職の斡旋を依頼する。
  • 9月13日 向井永太郎の斡旋と小国露堂(善平)の厚意により、北門新報社(第三次)校正係となるため札幌行き。
  • 9月14日 札幌市北七条西4-4 田中サト宅に下宿。
  • 9月16日 北門新報社出社。「北門歌壇」を起こし、「秋風記」を掲載。妻節子等は小樽に行き、次姉山本方に寄寓。
  • 9月27日 小国露堂の薦めもあり『小樽日報』社創業に参加を決意。(月給20円)
  • 10月1日 『小樽日報』社出社(社長は初代釧路町長、衆議院議員の白石義郎。同僚に野口雨情)。
  • 10月2日 妻節子、京子、母カツと小樽区花園町14番地西沢善太郎方(現小樽市花園3-9-20 味処た志満)に間借り。
  • 10月15日 『小樽日報』創刊。野口雨情等との、主筆岩泉江東の排斥運動露顕す。雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任(月給25円)となるが、依然として密かに江東排斥を思う。
  • 11月6日 花園町畑14の借家(家主秋野音次郎、現小樽市花園3-10-14 弥助鮨)に移る。
  • 11月16日 白石社長、啄木の言を容れ、岩泉主筆解任。
  • 11月19日 「主筆江東氏を送る」を『小樽日報』紙上に掲載。
  • 11月20日 啄木の推薦で、沢田信太郎、編集長として着任。
  • 12月12日 事務長小林寅吉から暴力をふるわれたことを契機として退社(21日退社広告)。給料未払いのまま年末を迎え、生活に困窮する。
  • 12月22日 沢田信太郎「石川啄木兄と別る。」を『小樽日報』紙上に掲載。

 
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 1908年 明治41年 22歳   

  • 1月1日 失職のまま「門松も立てなければ、注連飾もしない。」正月を迎える。
  • 1月4日 西川光二郎の社会主義演説会を聞く。
  • 1月10日 沢田信太郎と桜庭ちか子の結婚問題に奔走するが果たせず。
  • 1月13日 社長の白石義郎の経営する『釧路新聞』社勤務決定。白石及び沢田信太郎の厚意によるものである。
  • 1月19〜21日 妻子と別れて、小樽を発ち、途中岩見沢に下車し駅長官舎に山本千三郎・トラ(姉夫妻)を訪ね、21日、釧路着。単身赴任は、以後の妻節子との行き違いの遠因ともなる。
  • 1月22日 『釧路新聞』出社。三面主任であったが、実質的には、編集長格として活躍。月給25円。「釧路詞壇」を設け、政治評論「雲間寸観」も連載。
  • 1月24〜27日ごろ、節子は、娘京子、母カツとともに花園町14番地に間借りする。極寒の時、釧路の啄木から送金十分ではなく悲惨な生活を送る。
  • 2月1日 「紅筆便り」という花柳界記事の連載も始まる。花柳界にも出入りし、特に芸者小奴との交情を深める一方、笠井病院看護婦の梅川操との事件も起こす。
  • 3月23日 上記の事情と主筆日景安太郎への不満及び創作生活への憧れから東京への思いを強くし、社を休み始める。
  • 3月28日 白石社長からの出社促進の電報などにより釧路脱出を決意。
  • 4月5日 釧路を去って、海路函館へ向かう。(7日着)
  • 4月24日 「文学的運命を極度まで試験する決心」(向井永太郎宛書簡・同年5月5日)にて函館より、横浜行き郵船三河丸に乗り、27日午後6時横浜港着。但し、故郷の渋民を通りたくない理由もあり、海路を選択。家族は、宮崎郁雨(大四郎)に托した。
  • 1か月ほどの間に、「菊池君」、「病院の窓」、「母」、「天鵞絨」、「二筋の血」、「刑余の叔父」の6作品、300枚を脱稿するも、売り込みに失敗。煙草銭にこと欠き、原稿用紙、インクもなくなるほど生活に困窮する。
  • 6月4日 森鴎外に、「病院の窓」、「天鵞絨」の出版紹介を懇願する。(「病院の窓」が鴎外の尽力により春陽堂と購入契約。但し、原稿料22円の支払いは8カ月後となった。)
  • 6月中旬から下旬にかけて、小説創作の失敗を自覚。植木貞子との関係、筑紫の歌人菅原芳子との文通、娘京子の病気(ジフテリヤ)、川上眉山の自殺、国木田独歩の死等に心を乱し、苦悩を短歌にまぎらす。(歌稿ノート「暇ナ時」。)
  • 6月23日 夜、歌興湧き、25日までに250首ほどを作る。「頭がすっかり歌にな」り、「何を見ても何を聞いても皆歌だ」という。下宿代の督促はますます急を告げ、自殺を思うことしばしばとなる。この二日間の歌が「明星」七月号に「石破集」と題して載る。
  • 9月6日 貧窮に喘ぐ啄木を救うため、愛蔵の書籍までも処分した金田一京助の厚意により、本郷区森川町1番地新坂358(現文京区本郷6-10-12)の蓋平館別荘に移る。
  • 10月1日 『東京毎日新聞』に勤務する新詩社同人栗原古城(元吉)から、同紙に小説連載の勧めを受ける。
  • 10月19日 節子、函館区立宝尋常高等小学校代用教員として出勤。月給12円。
  • 11月1日 『東京毎日新聞』に「鳥影」の連載(59回)を開始する。
  • 11月5日 『明星』百号にて終刊。
  • 11月22日〜12月7日 「鳥影」連載と並行して「赤痢」を脱稿。
  • 12月1日 釧路の小奴、前月結婚した夫、逸身豊之輔と上京。啄木を蓋平館に訪ねる。
  • 12月 平野万里、吉井勇と「スバル」創刊号の準備にあたる。

 
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 1909年 明治42年 23歳   

  • 1月1日 『スバル』創刊号発行。(啄木は、発行名義人)。『スバル』の誌名は、森鴎外により、発行所住所は、平出修の法律事務所と同じ。啄木も小説「赤痢」を発表した。
  • 1月9日 森鴎外宅での観潮楼歌会にて、斎藤茂吉と会う。歌会で啄木最高19点を獲得。
  • 2月1日 啄木の編集による『スバル』第二号発行。啄木も自伝小説「足跡(その一)」を非常な抱負をもって発表。紙上で平野万里と短歌論争を行う。
  • 「足跡(その一)」が早稲田文学からけなされ非常にがっかりしてあとを続ける気を失った。
  • 2月3日 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。
  • 2月7日 東京朝日新聞社に佐藤編集長を訪問。就職について重ねて懇請。考慮する旨の確約を得る。
  • 2月24日 佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)
  • 3月1日 朝日新聞社出社。佐藤編集部長、渋川玄耳(柳次郎)社会部長に会い、校正係としての任務につく。校正係は主任加藤四郎、他に寺崎太三郎、木村益太郎、山田宗助、三品長三郎の四人がいた。
  • 3月21日 浅草新片町一に島崎藤村を訪問する。
  • 4月7日〜6月16日 家族を迎えるまでの苦悩を『ローマ字日記』に記す。
  • 4月8日 北原白秋と浅草花街に遊び、末広屋の当時芸者となっていた植木貞子(セン)と一夜を共にする。
  • 4月13日 函館の母カツより上京を促す手紙来る。啄木は就職したものの年来の借財のため家族を迎える準備ができず、また文学思想上の煩悶もあって自虐的な生活を送り、浅草花街に遊ぶ。
  • 6月2日 節子、函館区立宝尋常高等小学校退職。
  • 6月7日 宮崎郁雨に伴われて妻、母、娘函館出発。翌8日、盛岡の堀合家に滞在する。母は途中野辺地に下車、夫一禎の許に赴く。
  • 6月16日 家族を上野駅に迎える。本郷区本郷弓町2丁目17番地(現文京区本郷2-38-9)の新井こう方(喜之床)二階二間の間借り生活。この日の朝のことを記して「ローマ字日記」は終わる。
  • 妻節子、母カツとの確執に苦しむ。「内のお母さんくらいえぢのある人はおそらく天下に二人とあるまいと思ふ。」(7月5日付妹ふき子・孝子宛節子書簡)
  • 10月1日 『スバル』第十号に小説「葉書」を発表。
  • 10月2日 上京後の生活や姑との軋轢、7月以降の肋膜炎の病苦に耐えかねて、妻節子、書き置きをして娘京子とともに盛岡の実家に帰る。宮崎郁雨に嫁ぐ妹ふき子の結婚を手伝うためでもあった。
  • 10月26日 節子は、金田一京助と恩師の新渡戸仙岳の尽力で帰宅するも、この事件は、啄木に深刻な打撃を与え、文学上の一転機をもたらした。

「私が居ないあとでおつ母さんをいぢめたさうです。そして家事はすべて私がする事になりました。六十三にもなる年よりが何もかもガシヤマスからおもしろくないと云ふておこつたさうです。おつ母さんはもう閉口してよわりきつて居ますから、何も小言なんか云ひません。」(11月2日付妹ふき子宛節子書簡)
「遠い理想をのみを持って自ら現在の生活を直視することのできぬ人は哀れな人です。然し現実に面相接して、其処に一切の人間の可能性を忘却する人も亦憐な人でなければなりません。」(明治44年1月9日大島経男宛啄木書簡)

  • 10月26日 宮崎郁雨が節子の妹ふき子と結婚。
  • 11月30日 『東京毎日新聞』に評論「食ふべき詩」を連載(7回)する。
  • 12月20日 父一禎、野辺地から上京し一家5人となる。
  • この年の文筆活動は、前半が小説。後半が感想・評論を主とし、年末には、「夏の街の恐怖」、「事ありげな春の夕暮」などの長詩を残した。

 
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 1910年 明治43年 24歳   

  • 1月1日 『スバル』第二年一号発行(発行名義人は、江南文三に変わる。)
  • 1月19日 夜、森鴎外を自宅に訪問する。「夜石川啄木来て新聞社の為めに宮中選歌の事を問ふ。答へず。」(「鴎外日記」)
  • 2月 「松太郎と或る空家」「彼の日記の一節」を含む創作ノートを作る。
  • 3月下旬、前年の11月から携わっていた『二葉亭全集』第一巻の校正終わる。
  • 4月4日 東京朝日新聞社・社会部長渋川柳次郎(玄耳)の勧めにより、処女歌集の編集を始める。
  • 4月5日 東京朝日新聞社・学芸部の西村真次が富山房での『学生』編集のため退社することになり、『二葉亭全集』の引継ぎを西村から依頼される。
  • 4月7日 池辺三山主筆から正式に『二葉亭全集』の引継ぎを命ぜられる。
  • 4月11日 歌集『仕事の後』(歌数255首)の編集終了。
  • 4月12日 『仕事の後』の原稿を持参して春陽堂を訪ね、出版依頼するも、数日後戻された。
  • 4月16日 義兄山本千三郎、北海道鉄道管理局手宮駅長に就任。
  • 5月1日 橘智恵子、北村牧場の北村謹と結婚。
  • 5月10日 『二葉亭全集』第一巻(朝日新聞社刊)発行。
  • 5月から6月にかけて、最後の小説でもある「我等の一団と彼」を執筆した。(生前未発表)
  • 6月3日 新聞各社が、幸徳秋水が、湯河原の温泉宿から拘引されたことを伝える。
  • 6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」報道し、全国民を驚愕させる。啄木も衝撃を受け、社会主義思想に関心を持ち、多量の社会主義文献を読み、次年の日記の「前年のまとめ」の項に、「六月ー幸徳秋水等の陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。」と記したごとく、思想上の転機となる。[啄木自身も、6月21日〜7月末にかけて、「林中の鳥」の匿名で、「所謂今度の事」を書き上げ、東京朝日新聞の夜間編集主任であった弓削田精一に掲載を依頼したが、掲載されなかった。]
  • 7月1日 入院中の夏目漱石を訪ね、二葉亭の「けふり」について指導を受ける。
  • 7月5日 再度漱石を訪ね指導を受ける。資料として「SMOKE」所収の『ツルゲーネフ全集』第五巻を借用する。
  • 7月20日〜9月10日 名古屋の聖使女学院に在学中の妹光子、暑中休暇で上京。啄木宅に滞在。
  • 8月22日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に、「自己主義の思想としての自然主義」を発表。啄木は、これへの反論として、同月下旬、評論「時代閉塞の現状」を書き上げるが掲載されなかった。
  • 9月15日 渋川柳次郎の厚意により、新設の『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(啄木選歌は、翌年2月28日まで。82回。投稿者183名。総歌数568首)

 同日、ロンドンの 『THE TIMES』 は『報知新聞』の記事を紹介しながら、「日本の天皇への叛乱計画が報道される」として、幸徳秋水等の事件が、「大逆事件」であることを初めて報じた。

  • 10月4日 東雲堂と歌集出版契約。(原稿料20円。うち10円を同日受け取る。)長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生。妻節子、産後不調。
  • 10月9日 東雲堂主人西村辰五郎(陽吉)に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。(原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。)
  • 10月27日 長男真一死去。
  • 10月29日 真一葬儀。(浅草、了源寺)法名は「法夢孩児位」。
  • 10月から、家計維持のため三日に一度ずつ夜勤をする。
  • 11月8日 伯父の葛原対月死去。一禎は盛岡へ弔問に赴く。
  • 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。序文藪野椋十(渋川柳次郎)、表紙絵名取春僊。歌数551首。定価60銭。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。
  • 12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の第一回公判が開かれる。
  • 12月 身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

 
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 1911年 明治44年 25歳   

  • 1月3日 友人の平出修弁護士を訪問、幸徳秋水が獄中から担当弁護人(磯部四郎、花井卓蔵、今井力三郎)に送った陳述書を借用。
  • 1月5日 陳弁書を写し終わる。「この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男でない。さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。」(「日記」)
  • 1月12日 東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果(善麿)との会見を電話にて約束。
  • 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
  • 1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。
  • 1月23日 自宅にて幸徳秋水事件関係記録を整理。
  • 1月24日 「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」のまとめ。幸徳秋水等11名の死刑執行。(管野すがのみ25日朝執行。)
  • 1月26日 平出修の自宅で、七千枚十七冊に及ぶ特別裁判の「訴訟記録」初めの二冊と管野すがに関する部分を読む。
  • 2月1日 東京帝国大学医科大学附属病院三浦内科で青柳登一医学士の診察を受け、慢性腹膜炎と診断され、入院を命ぜられる。
  • 2月7日 手術を受ける。結果良好で、13日には門内散歩を許される。
  • 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。
  • 2月26日 この日から月末にかけて38度ないし40度の熱が続き、病床に呻吟する。
  • 3月6日 肋膜の水をとってから小康を得る。
  • 3月15日 午後退院。以後自宅療養。(しかし、病状は、相当に進行していたと見るべきであり、その後の勤務復帰はならなかった。)

 なお、『樹木と果実』の発行は、印刷所の不誠実によって難航していた。

  • 4月16日 印刷所三正舎に、契約破棄の通知を行う。
  • 4月18日 『樹木と果実』の発行を断念。なお、三正舎倒産のため、印刷代金は未回収に終わった。
  • 5月 「‘V’NAROD’SERIES A LETTER FROM PRISON」執筆、大逆事件の真相を世に伝えんとする。
  • 6月3日〜6日 節子の父堀合忠操が、函館の樺太建網漁業水産組合連合会に就職したため、函館移住の家族を送るために実家に帰りたいとする節子とトラブル。前々年秋の節子家出事件に懲りた啄木が帰省を許さなかったことによる。これが原因で堀合家と義絶。
  • 6月15日〜17日 「はてしなき議論の後」の9編執筆。うち6編を『創作』(7月号)に発表。この作品に「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を加え、第二歌集『呼子と口笛』の詩稿ノートを完成。
  • 7月4日 病状悪化。高熱が続き、氷嚢を抱えて、病床に呻吟する。
  • 7月18日 名古屋の妹光子上京、啄木の家に立ち寄り、北海道に向かう。
  • 7月28日 節子、東京帝国大学附属病院青山内科における診察によって肺尖カタル。伝染の危険ありとして、炊事は、カツの仕事となる。
  • 8月7日 宮崎郁雨の援助により、小石川区久堅町74ノ46号(現文京区小石川5-11-7)へ転居。
  • 8月10日〜9月14日 妹光子、看病のため北海道より上京し滞在する。
  • 8月21日 『詩歌(一ノ六号)』へ「猫を飼はば」17首を送る。活字となった最後の歌作。
  • 8月24日 母カツが高熱と下痢で倒れ、腸カタルと診断される。
  • 9月3日 一家窮状と感情の行き違いから父一禎は、次姉トラ宅(夫千三郎は、当時北海道・手宮駅長)を頼って家出。
  • 9月 宮崎郁雨が節子に出した手紙が原因で、親友であり、義弟であり、経済的支援者でもあった宮崎郁雨と義絶。

 この義絶が、啄木にとって、種々の面でいかに決定的なものであったかは、経済的には節子が、9月14日からつけ始めた「金銭出納簿」にその具体を見ることが出来るし、文学的にも、以後の啄木に、これといった作品が提出されなかったことにも見ることが出来よう。

  • 9月中旬 娘京子、肺炎で倒れる。
  • 11月3日 岩手毎日新聞社勤務の友人岡山儀七(不衣)に宛てた、「平信(与岡山君書)」を書き始める。
  • 12月1日 『二葉亭全集』の事務引継ぎのため西本波太来宅。

  このころ発熱が続き苦しむ。
 
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 1912年 明治45年 26歳   

  • 1月1日 「今年ほど新年らしい気持ちのしない新年を迎へたことはない。といふよりは寧ろ、新年らしい気持ちになるだけの気力さへない新年だつたという方が当つてゐるかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考へると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかつた。朝にまだ寝てるうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかつた。いつも敷いておく蒲団は新年だといふので久し振りに押入にしまはれたが、暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた。」(「日記」)

「相不変半ば廃人同様のからだ」(木下杢太郎宛書簡)、「今も猶やまひ癒えずと告げてやる文さへ書かず深きかなしみに」(岩崎正書簡)に見るような最後の新年を迎えた。

  • 1月2日 市電ストライキの報道に関心を示す。「明治四十五年がストライキの中に来たといふ事は私の興味を惹かないわけに行かなかつた。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどんどん日本に起つて来る前兆のやうで、私の頭は久しぶりに一志きり急がしかつた。」(「日記」)

 金田一京助の言う所謂「思想的転回」など起こしていないという一傍証とも言えよう。〔なお、ストライキへの関心としては、前年の海沼慶治宛書簡(1911/明治44.6.17)もある。〕

  • 1月19日 『病室より』(エッセイ)をまとめ、「学生」に送るために投函。

「去年のうちは死ぬ事ばかり考へてゐたつけが、此頃は何とかして生きなければならぬと思ふ。」(「日記」)

  • 1月23日 母カツ、近所の開業医(宮内省侍医)三浦省軒の代診の診察により、結核であることが判明。江馬修の厚意により訪れた医師柿本庄六の診察結果も同じものであった。母は喀血が続き重体。
  • 1月24日 佐藤北江へ母の病状と、一家病人と化した近況を報告、施療院への入院を断る。
  • 1月25日 以後、三浦省軒の診察を受ける。
  • 1月26日 杉村広太郎(楚人冠)〔東京朝日新聞学芸部長〕から、社内有志による義金企ての通知来る。
  • 1月29日 佐藤北江、社内有志17名の見舞金34円40銭と新年宴会酒肴料3円を届けに来宅。
  • 1月30日 夕方俥に乗って神楽坂の相馬屋まで原稿用紙を買いに行き、帰りに本屋でクロポトキンの『ロシアの文学』を購入する。
  • 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された。
  • 2月20日 最後の日記を書く。以下が全文である。

二月二十日(火)
 日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上がつた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
 さうしてゐる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
 母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。

  • 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
  • 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名恵光妙雲大姉)。なお等光寺は、土岐哀果の生家であり、葬儀はその厚意によるものである。
  • 3月31日 金田一京助病気見舞い。「収入金田一氏ヨリお見舞い 十円」(「金銭出納簿」)
  • 4月5日 一禎、啄木重態の報を受け、室蘭の次姉トラ宅から上京。
  • 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。(この契約は、後述するように、啄木の死後、歌集『悲しき玩具』として実現することになる。が、例えば、三行書きの形式が前半と後半では不統一であることが示すように、「歌集」というより<ノートの復元>に近いものであった。しかし、こうした実態も、啄木の命の終わりが間近であったことを考え合わせると、一方では、やむをえなかったことだったとも言えよう。)
  • 4月13日 早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水であった。

 26年と53日の人生であった(1912年は閏年)。

  • 4月15日 佐藤北江、金田一京助若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。

(妻節子の意思もあり、遺骨を、翌年の3月23日に、函館に移し、立待岬に墓地を定めて葬った。なお、現在の「啄木一族の墓」は、宮崎郁雨により大正15年8月1日に建立された。)

  • 6月14日 次女房江、節子の療養先であった千葉県安房北条町(片山カノ方)にて誕生。
  • 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。総歌数、194首。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具(おもちゃ)である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日〜20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。
  • 9月4日 節子は、京子・房江の二人の遺児を連れて、当時は函館に移住していた実家に帰り、借家生活(青柳町32番地)を始めたが、翌年の1913年(大正2年)5月5日、午前6時40分、肺結核のため函館区豊川町34番地豊川病院で亡くなった。(法名貞安妙節信女)享年26歳6カ月。

 
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主要参考文献
石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001
石川啄木伝」岩城之徳/筑摩書房/1985
石川啄木人物叢書/岩城之徳/吉川弘文館/2000
「啄木評伝」岩城之徳/学燈社/1976
「啄木の妻節子」堀合了輔/洋々社/1981
石川啄木」近代作家研究叢書/金田一京助日本図書センター/1989
石川啄木全集」第8巻啄木研究/筑摩書房/1983
石川啄木集」日本近代文学大系23/岩城之徳・今井素子/角川書店/1990