〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「初めて並ぶ “郁雨と啄木の歌碑” を訪ねて」新潟県新発田市 <2>

郁雨の古里に並ぶ 郁雨と啄木の歌碑 <2>

かわいい “まつうら保育園”

郁雨は、1885年(明治18年)生まれなので、1874年(明治7年)創立の荒川小、または1883年(明治16年)創立の松浦小のどちらかに入学していたかもしれない。

しかし……。

・(郁雨の)祖父は何事につけても破格の人物だったらしく、その豪快ぶりは「新発田の街の人でも振返って見た程」であるという。

 

・街へ出かけては、金に糸目を付けずに豪遊し、また親分肌で「家には絶えず五人七人の食客がゐた」というような生活を繰り返しているうちに、しだいに財産を失い、借財が増えていったもののようである。

 

・生活が立ちゆかなくなった(郁雨の)父は、妻と四人の子を妻の実家に託し、単身函館へ向かう。

 

『啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花』山下多惠子 著

 

父が単身函館へ向かった1887年(明治20年)頃、母の実家に託されたときの郁雨は2歳。1889年(明治22年)、父の迎えで一家が函館へ移ったとき、郁雨は4歳だった。

故郷荒川の思い出は、あまりに幼すぎてたくさんはなかったかもしれない。

 

 

 

保育園入口

郁雨は函館で尋常小学校に入学する。

・郁雨は尋常小学校に入学する時にはまだ父親の事業が軌道に乗る前であり、宮崎家も授業料支払いに困難を来していた時期であった。函館では明治9年から官立の小学校が建てられていたが資力のない家庭の子供は就学出来ないでいた。そのような子供たちのために民間有志の人たちが無月謝で入学出来る学校として起こした小学校「鶴岡学校」に入学しているのである。

 

『啄木と郁雨 友情は不滅』西脇 巽 著

 

 

 

左・啄木歌碑 右・郁雨歌碑 右端に二宮金次郎

  

(つづく)

 

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