この秋の佐野厄除け大師
正面が田中正造の墓。
「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と彫られている。
左側の四角の石碑には啄木の歌。
背後から田中正造が啄木を見守っている。
夕川に葦は枯れたり
血にまどふ民の叫びの
など悲しきや
石川啄木
碑文
近代日本の先駆者田中正造翁は 明
治三十四年十二月十日第十五議会開
院式から帰る途中の明治天皇に足尾
銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民
の窮状を直訴する 当時盛岡中学
四年在学中の啄木はこの感動を三十
一文字に托した 奇しくもこの年
創立された県立佐野中学校(第四中学)
の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃
を与え作文その他に残されている
「碑陰」
啄木歌碑を建立したのは同寺(佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺)住職の旭岡聖順氏。旭岡氏は昭和27年から48年まで、県立佐野高等学校で教鞭を執っていた。そこで、同校の生徒たちが啄木の歌を通していっそう田中正造の研究を深め、かつ社会奉仕の精神を継承していってほしいとの願いを込めて、この碑を建立したという。
(「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり出版)
数年前までの「佐野厄よけ大師 しおり」
これには、上の写真のように「田中正造の墓」の説明と、「石川啄木歌碑」の説明が入っていた。
今年いただいた「しおり」は、表紙が同じだが他はすべて違っていた。
内容は、お釈迦さまが晩年に説かれた教えのもっとも主要な部分であった。
鐘楼堂
鐘の取り付けの箇所に、日本でも珍しいホロウという架空の動物がつけられている。江戸明暦期における佐野市の天明鋳物の代表的な名作で、当時105人の鋳物師たちが精進潔斎してつくりあげた。佐野市の有形指定文化財。(以前の「しおり」より)
佐野厄除け大師は、今年の暮れ・正月には相当の参拝者になることだろう。
ある予想では、30〜50万人という。
参拝者になるもよし。
いる場所が遠く離れていても、神仏に願いは届くと信じるもよし。