【漂泊の歌人 石川啄木】
ライカ北紀行 ―函館― 第96回
西野 鷹志 エッセイスト・写真家
- 日が暮れ、石川啄木夫人、節子が質草をもちこんだ。彼女が盛岡から持ってきた着物が入った行李(こうり)であった。訪れたのは入村質店(現在は茶房ひし伊)だった。
- 1907(明治40)年5月、岩手の渋民村から「石をもて追はるるごとく」函館に啄木がやってきた。ほどなく母カツ、妻節子、幼子京子、妹光子を呼びよせ、一家5人は函館山のふもと青柳町の裏長屋で肩をよせあい借家暮らしをはじめた。
- 「家庭は賑はしくなりたれども…六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり」と日記「函館の夏」で啄木はなげく。
- 一文無しの啄木は、文芸同人の紹介で函館商工会議所の臨時雇い、弥生尋常小学校の代用教員、函館日日新聞の記者と職を転々。いずれも一家をささえる啄木には乏しい給料で生活はきびしい。
- 8月下旬、市内で出火、風にあおられ、またたく間に全市の3分の2が焼失。ただ、青柳町の自宅は火災をまぬがれた。大火により文芸同人・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)との交わりなど実りおおい132日間の函館の生活は終わりを告げた。
(2022-10-30 nippon.com>ライカ北紀行)
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