〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

“啄木の小説「赤痢」論” ワクチン等のない時代に赤痢に苦しむ人々を描く <2>

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ウメ

「日本文学 5」特集・病と文学

石川啄木の小説「赤痢」論 <2> 

  ──可能性を秘めた疫病文学──
                  池田 功

 

二 強行診断、交通遮断、隔離病舎

  • 啄木はこの「赤痢」の執筆と平行しながら、自身にとって初めてとなる新聞連載の長編小説「鳥影」(「東京毎日新聞」一九〇八年十一月~十二月)を執筆していた。この「鳥影」のなかにも赤痢が描かれている。
  • 「鳥影」の舞台は啄木の故郷の岩手県の渋民村。物語のほとんど終わりのところで、小学教師の智恵子は盆踊りの夜に腹痛を起こし赤痢になる。医師は「赤痢──然も稍烈しい、チフス性らしい赤痢であ」ると診断し、担架に乗せて隔離病舎に入れる。家の門には「交通遮断」の札が貼られた。
  • このような赤痢が、個人ではなく村そのものを襲った場合はどうなるのであろうか。まずは強行診断、そして交通遮断。赤痢が発生したら、衣食住の「根本から改めさせる」か「全村を焼」いてしまうかであった。しかし、実際に行われたのは、「全村の交通遮断」である。このように村が交通遮断されることを、啄木自身は満十五歳の時に故郷の渋民村で体験している。

三 新興宗教としての天理教

  • このような赤痢の恐怖に襲われていた村に、二十四歳の横川松太郎が天理教の布教師としてやってくる。母親のお安が父親の作松に「天理教の有難い事」を説いたところ、作松は熱心な信者になり家の土地等すべてを売り払って「村の中央の小高い丘陵の上」に大会堂を建てた。しかし、父母が亡くなったために、松太郎は会堂に寝起きし天理教を学んだ。
  • 啄木自身、一九〇八年十一月十四日の日記に、大和(奈良)出身で新詩社「明星」社友の藤岡玉骨から天理教の話を聞き、「天理教には、多少、共産的な傾向がある。もしこれに社会の新理想を結付けることが出来たら面白からう」と記している。

四 新興宗教の布教と病とのかかわり

  • 小栗純子は『日本の近代杜会と天理教』で、安政年間から明冶四〇年頃にわたる入信動機の一覧表をつくり、以下のように病がその主な入信動機であるとまとめている。「天理教信者の入信の動機は、不治の病いを救けられ、信仰に入ったケースがほとんどである」と記し、「天理教に救いをもとめるほとんどの人びとが、天理教に病いからの解放をのぞんだ」と記している。
  • 病人と貧しき人々が、その布教のすべての対象でないのは当然である。しかし、松太郎の布教は貧しい村人を対象に、赤痢という伝染病からの救いをその手段としてゆく。


「日本文学 5」特集・病と文学
 2021年 VOL. 70 日本文学協会編集・刊行

 

(つづく)