林檎<2>
-啄木の歌に登場する花や木についての資料-
林檎
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
- 札幌の大きな林檎園の娘で弥生小学校の同僚教員であった橘智恵子に捧げた「忘れがたき人々 二」から。小奴の場合とちがって、こちらのほうは官能よりは心情を主とした青春の抒情歌である。もう一首、
世の中の明るさのみを吸ふごとき/黒き瞳の/今も目にあり
- 啄木はこの女性に対しては思慕を寄せるだけに終ったので、「二」の歌にはその清らさと、また弱さがある。
- 北海道流離の歌の中のとりわけ忘れがたい二人、小奴とこの橘智恵子が、職業も育ちも、また啄木の心のありようも対蹠的であるのは、興ふかい。
(上田三四二 「啄木名歌『一握の砂』鑑賞」 「石川啄木の手帖 - 國文学」昭和53年6月臨時増刊号)
- 私は、昭和三年の夏、北村牧場を訪れて、智恵子さんの娘さんと語りあったり、札幌の橘家をたずねて、智恵子さんのお母さんからも、色々とお話を聞くことができた。
- 更に翌昭和四年の夏、北海道野付牛の郵便局にいた、大野いち路君を訪れたところ、もう一冊しか、手許に残っていないという謄写版刷の小冊子「紅莉○(注)(グリーン)」(昭和四年五月一日紅莉○社)第二十一号特輯啄木追悼号をいただいたので、もう少し、補足したいとおもう。
- この啄木特輯号にある、智恵子さんのお兄さん、橘儀一の「啄木と橘智恵子」という資料を紹介しよう。
石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ
- これ正しく、拙宅でありますが、啄木君が札幌に来た。そして間もなく去つた。その中に一度拙宅を見舞はれましたが、丁度妹不在の為、啄木君も本意なくも帰られました。但し、小生は其時座敷に招じて御目にかかりましたが、直に帰られました。
- その時の啄木君は、失礼ながら、私には、何等の感興もなかつた人でした。否、全く知らぬ人でした。
- 妹が帰宅した時に、「今日、石川と云ふ人が来ましたよ」と、告げたるに、「そう! そうですか、あの方は函館で一緒に仕事をして居た方で、新らしい歌よみなんですよ。」そこで私は、始めて、啄木君を知つたのでした。
- 新らしい歌と啄木については其後、私は支那から、病の為に帰り、鎌倉に静養三年のうち、東海の小島の磯云々、「一握の砂」(我を愛する歌)……アア曾つては妹を尋ねて来た─小生三年静養中に得たる色々の出来事の中、正に啄木君を知り、啄木君に興味をもつたのは、そして「忘れがたき人々」(二)の中、二十幾首を読みし時、更に詩歌への精進となつたなどは、特筆すべき自分の記載でありませう。総て啄木君への感謝であり、妹への追憶であります。
(注 [○はもんがまえの中に西と土を縦に入れた文字])
(川並秀雄 『啄木秘話』 冬樹社 昭和54年)
- 啄木の上京後、函館に残った妻の節子は老母と娘を抱え生活に困窮した。夫は「何事も汝にえ言はず妻よただ炊ぎてあれな三合の米」(明星=明治41年7月号所収)と歌うのみで、送金もせず、救済の処置もとらなかった。
- やむをえず妻は函館区立宝尋常高等小学校の代用教員となり、自らの力で苦境を打開した。
-
上京後の啄木の脳裡に、美しい智恵子の女教師像とともに、けなげな妻の女教師像が彷彿としたことは確実である。
(岩城之徳・後藤伸行 『切り絵 石川啄木の世界』 ぎょうせい 昭和60年)
(つづく)