〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「林檎  <3>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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 林檎<3>-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

 

林檎

      石狩の都の外の

      君が家

      林檎の花の散りてやあらむ

 

  • 弥生小学校に在職当時さきに述べたように現実のその女性をまのあたりにして寄せた恋情にはもちろん深切なものがあったに違いないが、すでに妻子のある啄木にとっては所詮かなわぬ恋であったから、いわばプラトニックな思慕にすぎないものであり、片恋であったのではなかったかと思われる。それを三年の歳月を経て、東京で不如意で苦悩の多い生活の中で思いかえすと、そのおもかげが何倍かに拡大されて、その眼前にせまって来る思いがしたのに違いない。そのイメージはさらにイメージを生んでいってこうした浪漫的な歌をなさしめることになったのである。
  • 啄木がこうした歌をなしていたころ彼女は北海道大学を出た若い牧場主のところへ嫁していたのであった。『悲しき玩具』の中に、

   石狩の空知郡の
   牧場のお嫁さんより送り来し
   バタかな

  という一首が収められている。

(木俣修 『近代短歌の鑑賞と批評』 明治書院 昭和60年)

 


 

  • 小樽に転じた啄木は、「橘」の姓を名乗ったことがある。啄木は同地で小樽日報の創業に参加するが、その創刊号に自らの短歌七首を、「橘りう子(札幌)」なる匿名で掲載する。恋する乙女の姓、さらにカッコ書きでその女性の郷里名まで使っている。その中の一首に、「我が心音もなく泣かゆ何しかもただ言多き君とわかれ」がある。橘姓を名乗り、「……君とわかれ」と結ぶことで函館で別れた智恵子の面影をなお追い求めた啄木。と書いたら好事的めいてくるが、彼の君に対する愛慕の情は、函館から札幌、札幌から小樽、小樽から釧路を経て、北海の漂泊を終え東都の空の下に住むようになって、いっそう深さを増していく。
  • 大正十一年十月一日、智恵子は他界する。産褥熱のためだったが北村から石見沢町までタンカで運ばれ、同地石見沢病院で満三十三歳を一期に死の床についている。
  • 少年の日、北村牧場近くで釣をし智恵子夫人のお世話になったという牧水門下で「創作」同人の小西米作氏は智恵子の死の帰宅について、「当時はまだ北村通いのバスもなく、晩秋のぬかる路を、智恵子夫人の遺骸が担架で還って来たのを私も迎えたが、すでに遠い日の思い出となってしまった」(昭和三十四年『岩見沢文化』二号)と書いている。

(好川之範 『啄木の札幌放浪』 クマゲラBOOKS 昭和61年)

 


 

 

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  • 智恵子は明治二十二年生まれですから、啄木の三歳下です。一説によれば、啄木が智恵子をうたう歌を二十二首詠んだのは、智恵子の生まれた明治二十二年に因んだともいわれています。啄木にありそうな趣向です。実は歌人斎藤茂吉も、五十九歳で亡くなった母の死を悼む挽歌を、五十九歳に因んで、五十九首詠んでいるのです。
  • 一読して、この歌には「石狩の都の外の」とか「林檎の花の」というように、助詞の「の」が多く使われていることに気づくと思います。大きな場所から、だんだんに焦点を絞っていく手法で、この歌ですと、広い石狩の都という札幌、そしてそれをせばめて、その郊外の君の家──と、焦点を絞っていきます。
  • しかし、この歌の特徴は下の句の「林檎の花の散りてやあらむ」と、林檎を効果的に使っているところでしょう。初夏の5月に咲く白い林檎の花が、畑一面に散っているだろうという表現から、さっぱりとした清潔感を先ず感じます。そして、それ以上に、林檎そのものが、智恵子の上品な美しさを、私たちにイメージさせてくれます。おそらく、啄木はこの歌に、智恵子への清純な思いを託したかったのではないでしょうか。

(遊座昭吾『啄木秀歌』 八重岳書房 1991年)

 

(つづく)