〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木短歌は「美よりも真実」を詠むから「現代的」である キーン氏

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ハナミズキ

詩と思想」393号 2020年4月号 手を結ぶ世界の詩人たち

世界は啄木詩歌をどう受容したか <2>
                           池田功

       (明治大学教授、国際啄木学会会長)

(つづき)

○ 翻訳という壁の問題

  • 翻訳ということは、単に言葉を変換するだけではない困難さが伴う。インドのジョージ氏は、翻訳について二つの方法があるとしている。一つは外国の文化・風習などをそのまま訳す foreignizing であり、もう一つは自国の文化、風習の言葉に訳す domeisticising である。ジョージ氏自身は前者の手法で訳しているが、これ以外にも翻訳には様々な技術的な難しさが伴っている。
  • まずは短歌という日本独特の五七五七七というリズムのある形式をどうするかということである。もちろん、このリズムのままでも訳せるのは、同じ膠着語の韓国語・朝鮮語である。事実、啄木短歌をこの通りのリズムで何人もの韓国人が訳している。それでは、これ以外の言語はどのような工夫をしているのであろうか。それは複数行に訳すことにより、リズムをとっているということである。
  • また、日本文化に根ざした「障子」「味噌」「袷」などということをどう訳すか、さらにインドネシア語に訳したエディザル氏は、アルコールを飲む習慣のないイスラム教徒が大多数のインドネシア社会では、飲酒の幸福感を体験できないために困ったとある。同じくインドネシア語に訳した舟田京子氏は、啄木短歌のキーワードである「かなし」の微妙なニュアンスを表現する難しさを指摘している。
  • これ以外にも、単数・複数の問題として「蟹」や「友」がある。日本語は文法的に厳格でなくとも意味が通るが、西欧語は厳格である。


○ 啄木作品の魅力とは

  • それにLても海外に受容される啄木作品の魅力は、一体どこにあるのであろうか。
  • まず形式面である。啄木短歌が独自の三行書きという形式で書かれているということである。もしかしたらであるが、このことが「タンカ」という一行で書かれた日本独自の文学表現である以上に、多行詩とLての「ポエム」として親しみを感じさせ、受容の敷居を低くさせていたのかもしれない。
  • また、「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢつと手を見る」が、台湾、韓国、アメリカ、インド等の言語に貧しさや労働者の悲哀として共感をもって訳されていることから、社会思想や時代批判が評価されて受容されていることが考えられる。
  • さらに、ドナルド・キーンが『石川啄木』(2016年)の中で、啄木短歌が「美よりも真実」を詠んでいるが故に「現代的」であると指摘しているように、伝統的な美意識や抒情よりも、より普遍的で身近な日常生活を詠んでいることが、時代や民族や国境を越えて受容されている魅力なのではないかと思われる。

 

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 (おわり)