〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

詩は珍味や御馳走ではなく 日常の香の物だ -啄木-

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ハナミズキ

「短歌」869号 2020年5月号

明星が輩出した歌人たち 石川啄木

「血に染めし」から「はたらけど」へ ──「明星」と石川啄木
        池田 功

    (日本近代文学者、明治大学・大学院教授)

  • 石川啄木は、盛岡中学校三年生(明治33年)の時に、上級生の金田一京助から「明星」を見せてもらい、与謝野晶子の大胆で浪漫的な作品に影響を受け、その諾彙や技法を模倣してゆく。白蘋の筆名で以下の一首が初めて「明星」に掲載された。

   血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひ
   ここに野にさけぶ秋  (明治35年10月)

  • 声高に自らの悲劇的な人生を予言するかのような、絶叫の歌である。翌月には単身上京し、渋谷の新詩社に与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問する。その後は主として詩を「明星」に掲載し、満十九歳にして第一詩集『あこがれ』を刊行した。七十七編の三分の一は「明星」に掲載された作品であり、詩ではあるが「恋」「愛」「夢」の語彙などが多く、晶子の延長線上にある。鉄幹が「新たに詩壇の風調を建つるいきざし火の如く」云々と跋文を書いている。
  • このように、啄木は、「明星」の鉄幹・晶子の圧倒的な影響下から出発した。しかし、明治四十年から、家族を連れての北海道生活を余儀なくされる。その間、生活の困窮を味わい、また社会主義思想や自然主義文学に触れた。そのことにより、浪漫主義的な天才主義を維持できなくなり現実を見つめる等身大の考え方に大きく変化してゆく。
  • 啄木の生活や文学観が大きく変化したのは、明治四十二年六月に家族が上京することによってである。一家の生活のために東京朝日新聞社の校正係として勤めを行う中で、「弓町より 食ふべき詩」(明治42年11月、12月)で、自分がめざしている詩を定義する。それは「珍味乃至は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に『必要』な詩」であるとする。
  • また啄木は、「弓町より」の冒頭で『あこがれ』時代の詩を否定している。しかし、短歌を否定したわけではない。「忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。」と、日常生活の一瞬をとらえる表現として短歌がふさわしいとしている。この頃に詠んだ歌を挙げよう。

   こみ合へる電車の隅にちゞこまるゆふべゆふべ
   の我のいとしさ「創作」(明治43年5月号)
   いそがしき生活のなかの時折の物思ひをば誰
   が為にする「創作」(明治43年5月号)
   こころよき疲れなるかな息も吐かず仕事をした
   る後のこの疲れ「創作」(明治43年7月号)

  • 一九二〇年の中国語から啄木作品が翻訳されてゆき、現在十九カ国語に翻訳されている。(池田功編『世界は啄木短歌をどう受容したか』桜出版)

   はたらけど/はたらけど猶わが生活楽になら
   ざり/ぢつと手を見る(『一握の砂』)

  • この歌が多くの国で貧しさや労働者の悲哀の歌として、共感を持って受容されている。
  • 啄木は、「明星」から出発したが、そこから生活の中での一瞬を詠む日常の歌に変化することにより、今日の名声を得ているともいえるのである。

 

「短歌」869号 2020年5月号 角川文化振興財団