〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の生涯  26年と53日の生 <啄木の終焉 1>

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ロウバイ

啄木の生涯  26年と53日の生

<啄木の終焉 1>

「晩年の石川啄木金田一京助

 最後に、晩年の談話の事であるが、晩年の臥床に石川君を尋ねた人々は、どういう印象を受けられたであろうか。何かその間に変化を感じられた人が無かったものであろうか。私は其を聞きたい。

 私自身は、結婚をしたり、子供をもったり、自分の暮らしに追われたりして、家を成してから随分石川君に背いていた。(この事を思うと、今ひとり生残って、友人顔して兎や角言うことは、心苦さを覚える)。殊に、越えて一月、即ち石川君の亡くなる年になっては、私は、新年に、二つになった女の児を亡くして、ひた寄せに来る哀苦に、我と自身を繁務に引入れて──出版業を創める若い友人の為に『新言語学』の著を引受けたのだった──凡夫の愚痴を自ら封じて暮らしていた。それ以来、石川君には、一層逢う機会もなく、亡くなる日を加えて僅三度しか訪っていない。一度は三月始、母堂の亡くなられたすぐあと、此の時は石川君は、『自分達夫婦が、朝常の如く起きて見ると、隣室で母が夜中あたりに息を引き取って、冷たくなっていたのだった』こと、『子や嫁と同じ屋のむねの下に住みながら、死に水も取られずに死んでいた』という事、それを世にもあられぬ様に物語って、しんみりお母さんを可愛そうがる談に暮れて、殆んどその余の話は──何が出たか覚えがないぐらいだ。

 二度目は、何がなしに手紙をくれてただ逢いたいと言ってよこしたので行った。それは亡くなる十日前、丁度私が『新言語学』を脱稿した時だった。行って見ると、想像にも及ばない気の毒な状態にあった。此の事は『年譜』にも書いたことだが、簡結の為めに少し言い歪んだ点もあるから今増訂旁々少し詳かに書く。石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、薬もくれないし、来ても呉れない』という。また『いくら自分で生き度いと思ったって、こんなですもの』と言って、自分で夜具の脇をあげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿、髑髏の両脚を誤って撥ような恐ろしい驚きに、私は覚えず恐い物に蓋をするようにして、『是じゃいけない、何よりも、兎に角まず好きなもので滋養になるものを食べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどころ!米さえ……ない』と顔を歪めて笑った。私は二の句が出なかった。『どれ、ちょっとお待ちェんせや』(お待ちなさいよ)と、国訛りの挨拶をひとつ残して、真驀地に私の家へ引っ返した。道々原稿の処置を考えながら。

 『年譜』では、私が此処で原稿を金に代えてすぐ其金を持って行ったような言い方になってしまってるが、原稿はその日すぐ金にはならなかった。自分の無能さをさらけ出して羞しいが、石川君の誰かへの手紙にも見える様に当時私は三十円の月給取(三省堂の百科大辞典編輯所員として)だった。それへ一週二時間の言語学を持って、国学院から一時間一円の時間給を貰っていた。丁度この日は、三十日に貰った俸給が、仕払いをすましたばかりで、あとにまだ十余円あった。それが一個月の私の家の経済だった。本の原稿から、二十円は、はいるが、それは明日だ、明日までは待てないから、それを融通するのだと家の者へ話して、その十円を出さして手に握って駈けて行ったのだった。

 途でドンが鳴って、昼さがりの満都の桜の花が見頃に咲きみだれ、ぱらぱらと吹雪の様に顔へかかるのを、私は額へさがる毛と汗と、一つ手で払いながら駈け駈けして行ったことを記憶する。途すがら、表町・久堅町あたりの良い家々からは、美しく連れ立った老若男女の群が、お花見に出盛る絶好の花見日和の祭日だった。

 『ほんのすこしですけれど』と私が、うつむき乍ら手を差し出した時、石川君も、節子さんも、だまって何とも言わなかった。『無躾だったかしら』と心に気遣いながら二人を見ると、石川君は枕しながら、堅く目を塞いだ顔を少しうつむけて、片手を出して拝むような手真似をしていた。節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとしていた。それを見ると、余りのいたわしさに、一時に私も胸が塞ってしまった。私は、私自身の三ヵ月の労力が、ただこの一瞬に、こうも深く酬われようとは思わなかった。私は私で胸がいっばいになり、誰ひとり物も言わず、暫く三人はだまりこくって泣いていたのだった。石川君が一等さきに口を切って、『こう永く病んでねていると、しみじみ人の情けが身にこたえる』ということ『友だちの友情ほど嬉しいものがない』というようなことから、静かな話をして、『私の言語学が脱稿したので』と私が話すと、自分の著述でも出来たように喜んでくれたりした。

 それから十日程立つ朝だった。車屋にひどく門を叩かれて出て見ると『小石川の石川さんからです、すぐこれへ乗って』という迎えだったのである。この日は土曜で、私が学校が早いので、前夜枕元へ置いて寝た洋服を、寝床の上から着て起きて、すぐ其の車で駈けつけた。

 上ってすぐ隔ての襖をあけると、仰向けに此方を向いて寝ていた石川君の顔、それはすっかり衰容が来て、面がわりしたのに先ず吐胸を突かれたが、同時に、洞穴があいたように、ぱくりと其の口と目と鼻孔が開いて、『たのむ!』と、大きなかすれた声が風のように私の出ばなへかぶさって来た。私は死霊にでも逢ったよう、膝が泳いで、のめるようにそこへ坐ったばかり、いう所の言葉を知らなかった。

 あの際に、何と言って上げるのが一等よかったろうか、私には今でもよいことばがわからない。

 この場に臨んで、間に合わせの言葉などはもはや出べきものではなかった。と言って私の腑甲斐無さ、突差に大きく、よし引き受けた。安心してお死になさい。といえる程の何物も持ち合わさなかったことを暴露してしまわなければならなかった。言葉が喉へ絡みついて、傷ましく、真暗に、溜め息を窒まらしている木偶の坊に過ぎなかった。

 石川君は、それっきり目も口もつぶっていつまでもいつまでも昏々としていた。

 石川君は此の期に臨んで、卅年の交友の顔に卑怯なたじろぎの色を読んで目を瞑ったのでありはしなかったか。それとも夜半から待ちぬいて、一目見て、言おうとしていた一言を言ったので、気がゆるむと共に再び深い昏睡に陥ったものかと気休めをしても見る。永遠に解けがたい苦しい謎である。

 節子さんが其時そばへ来て、早朝、御迷惑を……ゆうべ一晩、あなたを呼んでくれと言ってきかないものですから、『今晩はもう遅いからあしたの朝』となだめると、けさは又夜中からそういってきかないので…、やっと夜の明けるのを待って……など小声で話していると、そこへ若山牧水氏が見えた。節子さんが、「若山さんがいらっしゃいましたよ」と大きな声で幾度も幾度も呼んだ。始めは依然として昏睡していたが、その内に気が着いたと見えて、何か若山氏へ言おうとする。若山氏が聞き取ろうと半身をせり出して畳へ手をついた。少しにっこりして、『こないだは有りがとう』と、言ったのは、同氏に一握の砂以後の歌稿を頼んで、土岐氏を通じて、東雲堂で出すようになった、その稿料の届いた礼をこの間際に述べたのであった。それから石川君は若山氏の畳に衝いた岩乗な手首から肩の方を見上げて、『君は丈夫なからだで羨ましいねえ』など言った時には、私達は顔を見合せて覚えず悦びの微笑を交わした。その内に、すっかり元気が出て来て、何か若山氏との雑誌の話などをし始めた。私を顧みては、『今日は土曜で学校の日でしたね。どうかいらして下さい。』などと、此の際になってもまだ私の欠勤に因る減収を気にしてくれた。剰へ若山氏との話の中には、不用意に、『癒ったら今度はこうこう』というような将来の計画に関する語気のはいるのを聞いた。『遅くなりませんか、どうぞ学校へ』など言われるにつれ、又、節子さんも、『此の分なら大丈夫でしようから、どうぞ』と言うので『今危篤だから、離れられないのだ』と勘附かせるのもいけないし、病人の心に随って、『では一寸行って来ます』と私が起ったとき、軽く目で会釈をしてくれたのが、此の世のすべての最後のものとなってしまった。

 若山氏の臨終記に拠れば、それから幾分も立たなかったという、容態の一変したのは。若山氏の記を引用すると


(前略、私が去り、節子さんも初めて枕許を離れて)それから幾分もたたなかつたらう、彼の容体はまた一変した、話しかけてゐた唇をそのままに、次第に瞳があやしくなつて来た。私は惶てて細君を呼んだ。細君とその時まで次の部屋に退いて出て来なかつた彼の老父とが出て来た。私は頼まれて危篤の電報を打ちに郵便局まで走つて帰つて来ても尚その昏睡は続いてゐた。細君たちは口うつしに薬を注ぐやら唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしてゐたが私はふとその場に彼の長女の居ないのに気がついて、それを探しに戸外に出た。そして門口で桜の落花を拾つて遊んでゐた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とが前後から石川君を抱きかかへて、低いながら声をたてて泣いてゐた、老父は私を見ると、かたちを改めて、『もう駄目です』と言つた。……何といふ惶しい臨終だらうと、今までとつた場所をかへて、ひつそりと置き捨てられてゐる彼の遺骸のそばに坐しながらかぶせてあつた毛布を少し引いて彼の顔を見てゐると、生前と少しも変らぬ様子にしか感ぜられぬのであつた』
 

 

 「何といふ惶しい臨終だろう」とは、一寸の間に急変したことを言われたまでで、「何という穏かな臨終だろう」と今言い替えても少しも差支が無い。心ゆく友と心ゆく話をしながら溘然として逝ったとでもいうのであろうか。


 一方、私自身は、授業をやって、途中三省堂へ寄って午後休むと断って、久堅町へ駈けて来た時には、道ばたのポストの傍に、京ちゃんを見つけた。『今時分京ちゃんが此のあたりへ出ているようでは』と、少し安心をしながら、尚京ちゃんの両肩へ手を掛けて顔を覗きながら、『お父さんは?』ときくと、京ちゃんは『居る!』私はほっとして、まあよかったと歩を緩めて石川君の家へ来て見ると、万事終っていた。京ちゃんには、年中横臥しているお父さんの今朝が、昨日や一昨日や、乃至この幾月来と、少しもその間にこの急劇な変化が生じたことを思い寄ることも出来なかったのである。多分は、しらせの葉書を出しにポストまでお使いに来て、折から肩へこぼれて来る何処からともなき桜の花びらを無心にかまっていたのであった。


 君が既に息を引き取ったあとへ帰って来て、布を払って変り果てた相貌を冷くさわって見ても、まだ本当にそうと思えなかった私は、烏兎勿々十年の後に至るまで、幾度この場面を夢に見たろう。凡夫の迷執というものであろう、時には、故人の今一度唇を動かすのを見て、ア、まだ生きてる! と喜び訝りながら、何か言おうとあせって目の覚めることもよくあった。このごろ此の夢をさえ見ぬようになったのが、又悲しいさびしさである。


 私は繰返して思う。石川君の死は、平凡に似て、決して尋常一様の死ではない。あれが若し逆に、京ちゃんが取り縋って泣き、節子さんが取り乱し、君自身のた打ち廻って絶え入ったら──それさへ少しも無理とは思わないが──どんなであったろう。


 節子さんをして、歿前歿後少しも取紊させず、幼な児の無垢な心情には、死の暗い陰をひとつ差させずに、自分も従容として死んで行けたのは、吾々凡夫の身には、殆んど想像も許さざる往生といわなければならないと思う。


 私の受けた石川君晩年の印象は、大凡此のようなものであったのである。本当の晩年に、その一年前とは違った石川君だったと推断する追想も、或は暗々裡にこの印象が前提となり基調となってそうなったものかも知れないのである。石川君が一種の自己完成を達成してから、愈々長逝するまでは尚優に半年の歳月があったのであるから、この間に数多の人々が逢っていられることと思う。中には随分私の推断を裏切るような気分を経験した人もあるかも知れない。現に若山氏の前掲の臨終記の中にも、後半に

 

『死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語つた。「若山君、僕はまだ助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見給へ、其処にある薬がこの二三日来断えてゐるが、この薬を買ふ金さへあつたら僕はいますぐ元気を恢復するのだ、現に僕の家には一円二十六銭(或は単に廿六銭であつたかとも思ふ)の金しか無い、しかももう何処からも入つて来る見込は無くなつてゐるのだ』と。(これで若山氏が歌稿を携へて土岐氏を訪ずれる段になる。即ち『悲しき玩具』がそれだった)

 

 
(『石川啄木全集』第8巻啄木研究/筑摩書房/1983)