〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

啄木の生涯  26年と53日の生 <啄木の終焉 2>

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ロウバイ

啄木の生涯  26年と53日の生

<啄木の終焉 2>

「終焉とその遺族」岩城之徳 (目次番号 一八)

 この母親の急死は、発熱と不安と焦燥の病床生活を続ける啄木に、大きい衝撃を与えた。その後の彼は目に見えて衰弱し、ついに明治四十五年四月十三日の午前九時三十分、わが子重態の報に急遽上京した父親や、妻にみとられて波乱に富む薄幸の生涯を終えた。病名は母と同じ肺結核である。啄木の臨終に駆けつけた若山牧水は、この偉大な友の最後を次のように伝えている。

 

『創作』に掲げられた若山牧水の啄木臨終の記
 
若山牧水石川啄木君の歌『創作』大正三年一月号)


昨年の四月十三日の午前七時ごろ、私は車夫に起された。石川君の妻君から同君の危篤の迫ったことを知らしてよこしたものであった。すぐ駆けつけて見ると、座に一人の若い男の人がゐた。あとでその人が故人の竹馬の友金田一京助氏であることを知った。故人は、案外に安静であった。何しろ二年ごし病んでゐたので、実に見るかげもなく痩せ衰へてゐた。蒼暗い顔には誠に頬骨と深くおちこんだ両眼のみが残ってゐた。安静であったとは云へ、その前々日かに訪ねた時に比しては、いかにもその朝は弱ってゐた。聞けば午前の三時半ごろからとか、殆ど昏睡状態に陥つてゐたので、夜の明けるのを待焦れて我等二人を呼んだものであった相だ。私の行ったこともよく了解して、挨拶するやうなまなざしを永く私に向けてゐた。その時、その場に居なかった細君が入つて来て、石川君の枕もとに口を寄せて大きな声で、「若山さんがいらっしゃいましたよ」と幾度も幾度も呼んだとき、彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑った。あとで思へば、それが彼の最後の笑であったのだ。「解ってゐるよ」といふやうなことを云ひ度かったのだが、声が出せなかつたのであらう。さうして三四十分もたつと、急に彼に元気が出て来て初めて物を言ひ得るやうになつた。勿論、きれぎれの聞取りにくいものであつたが、意識も極めて明瞭で、何か四つ五つの事について談話を交はした。私から土岐君に頼んで、土岐君が東雲堂から持つて行つた原稿料の礼を何より先きに彼は云つた。あとでは、そのころ私が発行しやうとしてゐた雑誌の事などまで話し出した。その様子を見て、細君も金田一君もたいへんに安心して、金田一氏はこのぶんなら大丈夫だらうと、丁度時間が来たから私はこれから出勤するといって帰って行った。それから何分もたたなかったらう。彼の容体はまた一変した。話しかけてゐた唇をそのまま、次第に瞳があやしくなつて来た。私は遑て細君を呼んだ。細君と、その時まで次の部屋から出て来なかった同君の老父とが出て来た。とかくして私は危篤の電報を打ちに郵便局まで走つて、帰って来てもその昏睡状態は続いてゐた。細君たちは口うつしに薬を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしたが、甲斐あるやうに思はれなかった。私はふとその場に彼の長女の──六歳だつたと思ふ──ゐないのに気がついて、それを探しに急いで戸外に出た。そして引返した時には、老父と細君とが、一緒に石川を抱きあげて低いながら声を立てて泣いてゐた。私はその時あはただしく其処に立入つたのを烈しく苦痛に感じて立ちすくんだ。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もうとても駄目です。臨終のやうです」と云った。そしてそばにあつた置時計を手にとって、「九時半か」と眩くやうに云つた。時計は正に九時三十分であつた。


 電報を手にした土岐哀果が芝の浜松町から駆けつけ、金田一京助国学院の授業を終え倉皇として帰って来たときにはすでに北枕・逆さ屏風で、顔には白布がかけられていた。哀果はその時の悲しみを歌集『雑音の中』に、「あのころのわが貧しさに、いたましく、悲しく友を死なしめしかな。」と歌っているが、当時の友人たちにはこの歌が共通の実感として痛切に感じられるほど、啄木の最後は悲しく痛ましいものであった。


(『石川啄木人物叢書/岩城之徳/吉川弘文館/2000 )