◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
釧路 啄木22歳の新聞記者時代 - 心ときめく76日間 <7>
- 「啄木の息HP 2006年夏」からの再掲 + 2018年夏 )
- 写真について 撮影年が記されていないものは2006年撮影
- 「1~25」のナンバーは、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)による。また、2018年釧路文学館編集の「啄木歌碑・記念碑マップ」も全て同じ順序で並んでいる。
15 米町四丁目
ふるさとふれあい 街並み整備事業の歌碑
バス「弁天ヶ浜」の終点。釧路市の啄木歌碑のなかで、釧路駅から一番遠い場所にある。「たくぼくバス」が、ちょうど出発待ちをしていた。写真の中央やや左寄りのこんもりとした緑の中に、歌碑がある。その左の黄色と黒の標識は釧路臨港鉄道の踏切。
さらさらと氷の屑が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな
所在地 釧路市米町4-8先
建立 1990年(平成2)11月22日
この釧路臨港鉄道の踏切を越えると、写真にも薄く写っている海が広がる。テトラポットが続き、砂浜には昆布取りの人影があった。
16 弥生二丁目
ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑
花の下たもとほる子は
行きずりの
袖の香りに物言はせけり
所在地 釧路市米町4-1先
建立 1990年(平成2)11月22日
「ふるさとふれあい街並み整備事業の歌碑」十基は、米町公園近くから始まり弁天ヶ浜、本行寺、しゃも寅の井戸あたりをぐるっと廻って点在していた。
通りは車も少なく、静かな住宅やお寺が続いていた。また、歌碑の石はどれもよく選ばれていて、色や文様や形が楽しめた。
17 米町三丁目
ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑
酒のめば悲しみ一時に湧き来るを
寐て夢みぬを
うれしとはせし
所在地 釧路市米町3-1先
建立 1990年(平成2)11月22日
18 本行寺
本行寺山門の啄木歌碑
この歌碑は、石川啄木が本行寺での歌留多会に出席したのを記念して建立された。
一輪の赤き薔薇の花を見て
火の息すなる
唇をこそ思へ
所在地 釧路市弥生2-11-22 本行寺門前
建立 1983年(昭和58)8月5日
……釧路座の慈善演劇へ行つた。昨夜よりは見上げる許り上手に演つて居る。同じ桟敷に本行寺といふ真宗の寺の奥様が娘の三尺ハイカラと一緒に居たが、釧路病院の俣野君や太田君も来合せて仲々賑やかであつた。娘の手は温かであつた。帰りは午前一時半。
(明治41.2.11 啄木日記)
啄木通信の展示
本行寺と石川啄木
啄木は、『明治41年日誌』の3月31日の頃に、「本行寺の歌留多会へ衣川と二人で行ってみたが、目がチラチラして居て、駄目であった」と記しています。
実は啄木の日誌に、本行寺の名がそれ以前にも出てきています。 それは2月11日のところです。
この日、啄木は釧路座というところに慈善演劇を観にゆき、本行寺の奥様(伊藤よしえ)とその娘である「三尺ハイカラ」、すなはち本名・小菅マツに会った、というくだりです。この観劇の席で、三尺ハイカラは啄木に手をにぎられ、彼女は啄木に恋心を抱くのですが、その恋は実らなかったとされています。(「本行寺」パンフレット)
本行寺20分の1の模型
左壁には啄木一人百首の木製かるたが並ぶ。 その右奥の書棚が啄木関係文献になっている。
歌留多寺
第五世菅原弌也住職は、若いころから啄木の歌に親しみをもっていました。このため啄木関係文献を収集して開放していました。そこへ啄木が本行寺での「歌留多会へ行ってみた」という日記の記載。開基住職・伊藤浄栄師ゆかりの人が啄木と出会い、その啄木が本行寺本堂で百人一首カルタ に興じたことに深い因縁を思い、弌也住職は「啄木ゆかりの歌留多寺」を名乗ることを発案しました。
歌留多寺は本行寺の歴史の一面、歌留多寺の異称によって本行寺を啄木並びに啄木作品を研究・鑑賞、顕彰する拠点のひとつに位置づけようとしたものです。(「本行寺」パンフレット)
啄木一人百首
本行寺が歌人としての啄木らしさを世に問うものとして試みたのが、生涯を通じて4100首余といわれる作歌のなかから100首を選び、「一人百首」の木製カルタを作ったもので、全国にも例のない貴重なものです。(「本行寺」パンフレット)
啄木資料館
啄木も参加したカルタ会の復元模型
左手前の人物が啄木だと思われる。
弌也住職が年来、収集してきた啄木関係文献が300点に達したこともあり、昭和61年9月10日、啄木の生誕百年を記念して本 堂の一隅に「啄木資料館」が開設されました。この時、中心となった資料は・啄木資料、啄木関係文献、・啄木一人百首一式、・啄木グッズの簡単なものでし た。
しかし、平成元年4月13日に啄木が参加したカルタ会の行われた本堂の20分の1の復元模型が展示され、資料館らしくなりました。さらに、平成4年7月に展示全体の改修を行い、「啄木の釧路時代」を中心にした展示情報の一新をはかりました。(「本行寺」パンフレット)
啄木顕彰展示室への階段入口
本堂2階の大広間に「啄木顕彰展示室」を増設し、市内にある啄木歌碑の拓本を中心とした展示を行っています。釧路時代の啄木と関わった人たちの資料も、展覧することができます。
(「本行寺」パンフレット)
「啄木顕彰展示室」2階の大広間
小菅まさえ
釧路の「本行寺という真宗の寺の娘」で「背の極めて低い」「東京に行って居たといふのが自慢」なところから「三尺ハイカ ラと綽名され」ていた女性。芝居で同じ桟敷に隣り合わせた啄木を気に入って、何度も訪ねてきたり、啄木への思いを公言してはばからない彼女を、啄木は「獣 の如き餓ゑたる目をした女」と言う。
(「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子 盛岡タイムス2002.02.20~2004.06.16 「啄木の息」掲載文より)
本行寺の娘「小菅まさえ」は、啄木にひどい紹介のされ方をしている。しかし、本行寺は歌留多寺として、啄木ゆかりの品々を集めて訪れる人に開放した。二階の啄木顕彰室へは、特殊なドアを開けて階段を上っていく。拓本や写真などを自由に見ることができる。啄木関係書籍も豊富で、他の資料もゆっくり見られた。
啄木がカルタを取った頃の本行寺模型の中では、娘たちや啄木ら若者の木製人形が賑やかに札を拾っていた。
(つづく)