〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

釧路 啄木22歳の新聞記者時代 - 心ときめく76日間 <6>

 ◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02

 

釧路 啄木22歳の新聞記者時代 - 心ときめく76日間 <6>

  • 「啄木の息HP 2006年夏」からの再掲 + 2018年夏 )
  • 写真について 撮影年が記されていないものは2006年撮影
  • 「1~25」のナンバーは、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)による。また、2018年釧路文学館編集の「啄木歌碑・記念碑マップ」も全て同じ順序で並んでいる。

 

11 南大通八丁目

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“くしろ・歴史の散歩道”の歌碑

 

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三味線の絃のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜に
 
 所在地 釧路市南大通7-2
 建立  1993年(平成5)3月10日


「三味線の絃」の切れたこと、「火事のごと」、「騒ぐ子」、「大雪の夜」のそれぞれの歌語が複合して不気味なイメージを合成していることである。形容として用いられた「火事のごと」が「大雪の夜」の雪明りの中に噴き上げる焔を幻視させる効をあげていて、「騒ぐ子」(芸妓か)の内面の光景をもいろいろに想像させるのである。
(「石川啄木歌集全歌鑑賞」上田博)

 

 

市子(いちこ)= 大和いつ


 市子は、釧路の芸妓小奴と並ぶ花柳界の人気者で、1908年(明治41)当時17歳。市子の無邪気な言葉やふるまいは、時に啄木の微笑を誘ったであろう。市子とふれあうひとときは、心なごむものであったに違いない。
 啄木の市子への眼差しは、歌中「騒ぐ子」の「子」の語に表れているように思われる。釧路で親交のあった女性たちが、みな「女」と歌われるのに対し、市子のみが「子」となっているのは、偶然ではあるまい。
(「忘れな草 啄木の女性たち」山下多恵子 盛岡タイムス2002.02.20~2004.06.16 「啄木の息」掲載文より)

 


12 米町公園

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港を背に堂々と

 


「全国の啄木碑」2006年(北畠立朴)によれば
渋民啄木公園内の第1号歌碑から数えて
全国6番目。釧路では最初の建立である。

 


 十二時半頃、小奴は、送つて行くと云ふので出た。菊池とは裏門で別れた。何かは知らず身体がフラフラする。高足駄を穿いて、 雪路の悪さ。手を取合つて、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の縁に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーッと云ふ浪の音。幽かに千鳥の声を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。
 奴は色々と身の上の話をした。十六で芸者になつて、間もなく或薬局生に迫られて、小供心の埒もなく末の約束をした事、それは帯広でであつた。渡辺の家に生れて坪に貰はれた事、坪の養母の貧婪な事、己が名儀の漁場と屋敷を其養母に与へた事、嘗て其養母から、月々金を送らぬとて警察へ説諭願を出された事、函館で或る人の囲者となつて居た事。釧路へ帰つてくる船の中で今の鶤寅の女将と知つた事。そして、来年二十歳になつたら必ず芸者をやめるといふ事。今使つて居る婆さんの家は昔釧路一の富豪であつた事。一緒に居るぽんたの吝な事、彼を自分の家に置いた原因の事。
 月の影に波の音。噫忘られぬ港の景色ではあつた。“妹になれ”と自分は云つた。“なります”と小奴は無造作に答へた。“何日までも忘れないで頂戴。何処かへ行く時は屹度前以て知らして頂戴、ネ”と云つて舷を離れた。歩き乍ら、妻子が遠からず来る事を話した所が、非常に喜んで、 来たら必ず遊びにゆくから仲よくさして呉れと云つた。郵便局の前まで来て別れた。
(明治41.3.20 啄木日記)  

 

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しらしらと氷かがやき


千鳥なく


釧路の海の冬の月かな


 所在地 釧路市米町1-2 米町公園内


 建立  1934年(昭和9)12月26日

 

 

石川定氏が丹念に考証した啄木の歌稿のなかには


冬の磯氷れる砂をふみゆけば千鳥なくなり月落つる時


釧路潟千鳥なくなる夜の波の此月影を忘れずと言へ


月のぼり海しらじらとかがやきて千鳥来啼きぬ夜の磯ゆけば


などの作品のように、いま知人岬米町公園に建っている啄木歌碑「しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」という歌の原型のようなものを発見することができる。
(「石川啄木 -その釧路時代- 」鳥居省三)

 

 

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米町公園から見下ろす釧路重工業と港

 

中央の建物に“釧路重工業”の文字が見える。

 


知人海岸跡(知人町一丁目)


 米町公園啄木歌碑のある岡の北側下で、(中略)啄木はこの海岸を、小奴や梅川操らと月の夜に散歩した。
 現在の釧路重工業作業場及び倉庫の附近で草叢が茂っているが、何となく往時の砂浜を想像することができる。
(「石川啄木-その釧路時代」鳥居省三)

 

 

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「元町MAP」(くしろ元町青年団 発行 2018年7月)

 

釧路発祥の地・くしろ元町をたのしむお散歩マップ。

米町公園・知人海岸など、石川啄木も昔デートしていた有名スポットなどもある。

 


13 米町二丁目

 

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ふるさとふれあい
街並み整備事業の歌碑

 


 平成元年度から釧路市は「ふるさとふれあい街並み整備事業」として、この米町公園の史跡や文化財を整備して来た。


 この事業の一環として、短期間ではあったが「釧路新聞」の記者として健筆をふるった啄木の歌碑十基を建立した。
(「啄木文学碑紀行」浅沼秀政)


  
 「ふるさとふれあい街並み整備事業」の啄木の歌碑十基は、釧路観光協会(平成16年9月発行)の「くしろウォーキングまっぷ」の < 13・14・15・16・17・19・20・21・23・24 > にあたる。

 

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春の雨夜の窓ぬらし

そぼふれば

君が来るらむ鳥屋に鳩なく

 

 所在地:釧路市米町2-1先


 建立  1991年(平成3)12月27日

 


14 米町三丁目

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ふるさとふれあい街並み整備事業の歌碑

 

 

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顔とこゑ
それのみ昔に変らざる友にも会ひき
国の果にて
 
 所在地 釧路市米町3-1先
 建立  1992年(平成4)10月30日

 衣川について啄木は着任した日の日記に、次ぎのように書いている。

「驚いたのは、東京で同じ宿に居た事のある、佐藤岩君が三面の記者になって居た事で、聞けば同君は、此処に来てから、料理屋の出前持までやったとの事。」

 佐藤衣川は啄木と同郷、岩手県人である。衣川は後に梅川操との間に妙な事件を起こしてこれが啄木離釧の間接的な理由になったという、人間関係の複雑なところを見せた男である。

 

  顔とこゑ
  それのみ昔に変らざる友にも会ひき
  国の果にて


 この歌は啄木が衣川を詠ったものだが、衣川はのち、啄木の小説「病院の窓」の主人公のモデルとなった。
(「石川啄木 -その釧路時代- 」鳥居省三)

 

 

 (つづく)