◎啄木文学散歩・もくじ https://takuboku-no-iki.hatenablog.com/entries/2017/01/02
釧路 啄木22歳の新聞記者時代 - 心ときめく76日間 <5>
- 「啄木の息HP 2006年夏」からの再掲 + 2018年夏 )
- 写真について 撮影年が記されていないものは2006年撮影
- 「1~25」のナンバーは、「くしろウォーキングまっぷ・石川啄木文学コース」(釧路観光協会 平成16年9月発行)による。また、2018年釧路文学館編集の「啄木歌碑・記念碑マップ」も全て同じ順序で並んでいる。
6 南大通四丁目(釧路信金南支店前)
釧路信金南支店前
神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒の山の雪のあけぼの
建立 1997年(平成9)10月1日
信用金庫のショーウインドウに「“石川啄木 くしろ おもひで歌綴り”をさしあげます」と書いてあったのを見つけた。時間外だったがベルを押してお願いした。係りの人が、きれいなパンフレットを持って来てくれた。
編集後記を見たら「平成九年第八回国際啄木学会が釧路で開催された時の資料の一つを、街おこしの一助にと再発行したもの……」とあった。
7 南大通四丁目
“くしろ・歴史の散歩道”の歌碑
わが室に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日
建立 1994年(平成6)1月31日
「わが室」は釧路区北洲崎町一丁目の関という下宿の一室。この部屋で泣いた女は梅川ミサホ。「小説のなかの事かと」は明治四十一年三月二十一日の啄木日記にある、夜半の小奴と梅川の恋のさやあてめいた事件をいうのであろう。
(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)
奴の温い手にとられて帰つて来て、室に入ると火もあり、湯も沸つて居る。横山と奴と三人で茶を飲んだ。
兎角して一時となつた。“石川さん、” といふ声が窓の下から聞える。然も女の声だ。窓を開けば、真昼の如き月色の中に梅川が立つて居る。“お客様がありますか” “あります” “誰方?” 此時奴は梅川と聞いて、入れろと云ふ。“お這入りなさい。”
月は明くても、夜の一時は夜の一時である。女の身として、今頃何処をどう歩いて来たものか一向合点がいかぬ。入口の戸をトント ンと叩いて室に入つた顔を見て驚いた。何といふ顔だらう。髪は乱れて、目は吊つて、色は物凄くも蒼ざめて、やつれ様ツたらない。まるで五六日も下痢をした後か、無理酒の醒めぎはか、さらずば強姦でもされたと云つた様の顔色だ。這入つて来て、明い燈火に眩しさうにしたが、“あまり窓が明かつたもんだから、 遂……” と挨拶をする。“これは梅川さん、これは私の妹” と紹介すると、“おや貴女は小奴さんで” と女は挨拶。顔を上げた時、唯一雫、唯の一雫では あつたが、涙が梅川の目に光つた。
(明治41.3.21 啄木日記)
啄木の光と影 彷徨の天才歌人(2018年)
「表情多彩 釧路」
2018年5月 くしろがいどまっぷ 釧路観光コンベンション協会発行
8 啄木下宿跡
今夜、佐藤氏の宅から此洲崎町一丁目なる関下宿に移つた。二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つを抱いての寒さは、何とも云へぬ。
(明治41.1.23 啄木日記)
シーサイドホテル前
“たくぼくの宿”と書かれてある。
下宿料が夜具共で一ヶ月十四円五十銭、釧路での啄木の月給は三十円でしたから、下宿料にやや半分を払ったわけです………。
(「石川啄木 -その釧路時代- 」鳥居省三)
こほりたるインクの罎を
火に翳し
涙ながれぬともしびの下
建立 1983年(昭和58)8月5日
平成14年春、釧路シーサイドホテルのレストランの名前が『啄木の宿』と改名されました。正面入口右横の部屋が啄木に関する資料を展示するようになりました。
(平成14-12-10 港文館だより かわら版12号)
9 啄木ゆめ公園
小さな公園の歌碑
啄木の名のついた、かわいらしい公園が南大通に面してある。そこの歌碑は、現在(2006年)のところ釧路市内で一番新しい啄木歌碑である。
ちなみに現在(2006年)・全国最新の啄木歌碑は、2006年5月7日に建立された盛岡第一高等学校正面付近のものである。「盛岡の中學校の 露臺の 欄干に最一度我を倚らしめ」と彫られ、盛岡一高の同窓生有志の力で建てられた。
「ゆめ公園に歌碑建立」
歌人石川啄木ゆかりの地域として、今年商店会名も改名した釧路市南大通の「啄木通り商店会」が二十七日、五丁目の啄木ゆめ公園内に啄木の歌碑を建立、披露式を行った。街路灯に木札やフラッグの形で啄木歌を展示したり、公園を造成してきた同商店会の「啄木通り」整備はハード面では完了したことになる。
(2001-10-28 釧路新聞HP)
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
建立 2001年(平成13)10月27日
10 南大通七丁目
“くしろ・歴史の散歩道”の歌碑
休み坂入口にある 。
確かに途中で休みたくなるような坂。
山に居て
海の彼方の潮騒を
聞くとしもなく君を思ひぬ
建立 1994年(平成6)1月31日
啄木釧路の七十六日間が、この厳寒期でなくて、釧路が天下に誇るさわやかな秋であったら、啄木の文学が大いに違ったものになっていたであろうし、文学史上における啄木の位置づけもかなり異なったものになっていたろうと思われるので、それは少なくとも人間関係にも影響して、言 われているほど釧路が啄木にとって嫌な街にはならなかったのではないか、と考えてもいい。
(「石川啄木 -その釧路時代- 」鳥居省三)
(つづく)