[シャクナゲ]
「米沢と石川啄木」 北條元一史料の「再発見」 <1>
山崎 潔
- 石川啄木(明治19年〜明治45年 [1886〜1912] 、岩手県南岩手郡日戸村出身、盛岡中学校中退)は、最も広く知られる歌人の一人である。米沢は、短歌の盛んな土地だが、米沢と生前の啄木との繋がりは知られていない。啄木が米沢を訪れたこともない。しかし、実は、米沢と啄木には、驚くべき縁がある。それは、48年前、米沢の耳鼻咽喉科医師、歌人、歴史研究者であった北條元一(きたじょうげんいち、明治43年〜平成22年 [1910〜2010] )が、その著作、『北條元利の生涯』(昭和45年 [1970] )において記録したものである。
- 北條元一が、『北條元利の生涯』において記録したのは、自身の曾祖父、北條元利(きたじょうもととし、嘉永2年〜明治38年 [1849〜1905] )の足跡である。北條元利は、明治30年代に岩手県知事を務めた人物で、盛岡に過ごし、啄木だけでなく、後に啄木の妻となる堀合節子にも、意外な接点を持っていた。『北條元利の生涯』は、市立米沢図書館、岩手県立図書館、山形県立図書館、国立国会図書館などに長らく収蔵されてきたのだが、筆者の知るかぎり、啄木研究の視点で本書を引用した報告はない。私家版であったせいか、出版後ほぼ50年間、啄木研究者の目に触れることがなかったのだと思われる。
- 北條元利は、明治33年4月(1900、5月盛岡着任)から明治37年11月(1904)まで、4年8ヵ月間、岩手県知事を務めた。当時の岩手は混沌としていた。明治29年には明治三陸地震大津波、明治35年には八甲田山雪中行軍遭難事件、記録的凶作、明治37年には日露戦争が始まった。
- 啄木との第一の繋がりは、明治34年の「盛岡中学校最大のストライキ」に対する関与である。このストライキは15歳になったばかりの啄木に大きな影響を与えた。啄木は、校長に提出した巻紙二間半に及ぶ学級具申書を起草した一人だった。盛岡中学の混乱は、県教育最高責任者である元利の知るところとなり、元利は、期末テストを控えた校内の不穏沈静をはかるため、煽動者とみられた岡島を私邸に招き生徒達の説得を依頼した。
- ストライキの結果、年度末には盛岡中学の教師23名中19名が更迭され、校長は休職、岡島は依願免職となった。後任の校長は、強硬な校規粛正を行い、盛岡中学の自由な校風は一変して規則ずくめとなった。これが翌年の啄木の退学の遠因となったともいう。盛岡中学ストライキに関する元利の発言が残されているかどうかは未調査だが、新校長の方針は、元利の指示に従ったものである可能性が高い。
(つづく)
〇「米沢文化」第47号 所収 2018年3月30日 発行
◦ 著者 山崎 潔(医師 盛岡市在住)