〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 「米沢と石川啄木」<2> 


[シャクナゲ]


「米沢と石川啄木」 北條元一史料の「再発見」 <2>
   山崎 潔

  • 第二の繋がりは、北條元利の甥である北村南州生(明治18年〜昭和41年 [ 1885〜1966 ] 、北條元一の大叔父)と啄木の妻となる堀合節子(明治19年大正2年 [ 1886〜1913 ] )が、岩手郡滝沢村村立篠木尋常高等小学校の同僚教員として勤務していたことである。
  • 北村南州生は、明治37年3月(1904)に米沢中学校を卒業した。2年前に父を喪っていた北村は、岩手県知事であった元利を頼った。元利の斡旋で、同年4月、篠木小学校に準訓導として入職した。偶然、同時期、節子も篠木小学校に裁縫の代用教員として入職したのである。節子は明治35年に私立盛岡女学校を卒業した後、家事に従事していたが、明治37年初めには、啄木との結納が整っていた。従って、北村は篠木小学校で、婚約直後の節子に出会ったことになる。北村、満18歳9ヵ月、節子、17歳5ヵ月の頃である。
  • 節子との出会いから56年後、74歳の北村は、山形の短歌誌「赤光」昭和35年4月号(1960)に、北邑壺月なる雅号で、「石川節子のこと」という1ページの文章を書いた。『北條元利の生涯』は、この忘れられたエッセイの大半を紹介している。
  • 篠木小学校着任早々、北村は、校長の相馬徳次郎より、啄木と節子のことを知らされた。相馬校長は、「石川は隣りの渋民村の和尚の子で、最近雑誌『明星』に詩歌を投稿して多少世間から認められて来てはいるが、いわば三文文士」であるとし、啄木と節子との「文通や面会を硬く監視」するよう、北村に指示した。
  • この監視は、岩手郡役所に勤務する節子の父、堀合忠操が岩手郡視学(教育監督行政官)である平野喜平に依頼したものだった。忠操は、以前から、節子と啄木の恋愛に反対していたが、北村の記録により、忠操が、婚約後も啄木に対して警戒心を抱いていたことが分かる。実は、相馬校長自身も、節子の入職と全く同時期、渋民小学校から、20km南方の篠木小学校に転出していた。複雑なことに、相馬の転任には、東京から渋民村に失意のうちに帰郷していた啄木が関与していた。啄木は、酔って抜刀するという奇行を持つ相馬渋民小学校校長の排斥を求める親書を、二週間前に平野郡視学に提出し、認められていたのである。なぜ、平野郡視学が、啄木により排斥された相馬校長を、節子が赴任する篠木小学校の校長として選んだのかは、謎である。

(つづく)



〇「米沢文化」第47号 所収  2018年3月30日 発行
 ◦ 著者 山崎 潔(医師 盛岡市在住)