〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

 直木賞『銀河鉄道の父』に出てくる石川啄木


[カモメ]


第158回直木賞 受賞作 

 銀河鉄道の父』 著者 門井慶喜 講談社


7 あめゆじゅ

小学生のころは、教室で、担任の八木先生にエクトール・マロ『家なき子』を読んでもらって感動した。感動のあまり自分でも話をこしらえて寝る前にトシに聞かせたりした。それはしばらく措くとしても、
──ものを書く。
という行為に本気であこがれたのは、中学二年生の二学期だったろう。東京の東雲堂書店より刊行された石川啄木の第一歌集『一握の砂』を読んで、
(すごい)
衝撃を受けたのがきっかけだった。
石川啄木は、本名一(はじめ)。
盛岡中学校の先輩である。賢治よりも十年はやく生まれているから在学期間はかさならないが、素行がわるく、授業をなまけ、五年生のとき退学したことは伝説になっていた。退学の理由についても、
「恋愛したらしい」
だの、
「代数の試験でカンニングをしたんだ」
だのいう噂があったけれど、とにかく東京で本を出したというのは、岩手では金無垢の成功者にほかならない。賢治は「岩手日報」紙の記事を読んで関心をもち、一冊もとめ、そこにおさめられた五百首以上に接したのである。
(これが、時代だ)
胸が全焼した。


   学校の図書庫(としょぐら)の裏の秋の草
   黄なる花咲きし
   今も名知らず


   不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
   空に吸はれし
   十五の心


という歌に、ああ、あの場所か、わかるわかると優越感を抱いたなどという単純な話ではない。誰にもあるこころのゆれを誰にもわかる平易なことばで、しかも三行の分かち書きという斬新なかたちで、永遠に紙の上に定着したことに自由の風を感じたのである。それまでの詩歌というのは漢字が多く、音韻をもてあそび、こころざしや感情をむりやり読者に押しつける権力の道具であるように賢治はかねがね感じていた。
それで賢治も、歌稿ノートをつくった。
いろいろ詠んでみた。啄木先輩の影響は受けなかったつもりだが、いまにして思うと、影響以前に、発想が一本調子である。


   あはれ見よ月光うつる山の雪は
   若き貴人の屍蝋に似ずや。


   せともののひびわれのごとくほそえだは
   さびしく白きそらをわかちぬ。


月や空や雲や太陽などの「天」がらみのイメージと、山や雪や木の枝などの「地」がらみのイメージの取り合わせばかり。賢治のペンは、いうなれば、垂直線しか引けなかった。 

しかしとにかく、ことばをいじるのは、
(気持ちいい)
この誘惑の穴にさらに深く落ちたのは、盛岡高等農林の三年生のときだった。九人の同級生や下級生とともに、同人雑誌「アザリア」を創刊したのだ。


(この部分要約)
 《創刊号は四十八ページ、なかなか堂々たるものだった。賢治は、短歌二十首、童話一篇を寄せた。「おらは、書ける」このことは、賢治のひそかな自信になった。イリジウム採掘やら製飴工場やら人造宝石の事業のほうが、まだしも切実だった。》

が、意識の底では、文学は消え去ってはいなかった。
清冽な湖をいただいた山がじつは地下にゆっくりと熱い岩漿(まぐま)をためつつある、そんな状態だったのかもしれない。岩漿はやがてガスを生じ、溶岩となり、火山弾と化して地にあらわれるだろう。地をゆるがし、轟音とともに噴出するだろう。
きっかけは、東京だった。