〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 太宰治と石川啄木 小林茂雄がふたりを結んだのではないか


[カリフラワー・ロマネスコ]


「われ道化だじゃい」①没後70太宰と岩手 明治と昭和への「惜別」
  太宰治石川啄木 級友の小林茂雄 魯迅を仲立ちふたり結ぶ

今年は太宰治(1909―1948)の没後70年。青森県出身の太宰は啄木に感化され、盛岡出身の作家の石上玄一郎と青春に交わり、花巻出身の詩人の三田循司と師弟関係にあった。連載で岩手との縁をたぐる。題して「われ道化だじゃい」。(鎌田大介)=毎月1回連載します。

  • まず太宰と啄木の関係から。二人の生涯は、明治末のわずか4年の重なり。啄木が26歳で東京に没した1912(明治45)年に、太宰は4歳で青森県金木村におり、互いに認識はない。文学史の系譜においては断絶しているが、二人を結ぶ黒子がいる。盛中時代からの啄木の親友、小林茂雄(1886―1952)。中国文学者の魯迅の級友でもある。
  • 太宰後期の中編「惜別」は、小林の手記をもとに書かれた可能性がある。太宰は作品中1カ所だけ、城下町盛岡に親近を示しており、啄木を脳裏にペンを運んだのであろう。ただしこの作品は仙台時代の魯迅が主人公で、小林と留学生魯迅との関係をひもとかねばならない。二人は1904(明治37)年から仙台医専に机を並べた。
  • 太宰が小林の手記を見たとすれば、それはいつのことか。太宰は魯迅の事績を調べるため44(昭和19)年12月20日から、仙台市河北新報社を訪れ4日間、仙台医専の関係者を訪ねている。その際、小林の恩師であった加藤豊治郎を取材し、魯迅にまつわる小林のメモを見せられた―との説がある。
  • 啄木記念館長の森義真氏著「啄木の親友小林茂雄」から引用する。「4日間の取材の中で、そうした着想を得る証言や資料を入手したのではないか。その資料とは、茂雄の手記もしくはメモであったのではないか。その証言は、茂雄の『メモ魔』を太宰に認識させるものであったのではないか。こうした仮説を抱いている」。
  • 森氏は啄木と太宰について、「啄木は渋民、太宰は金木で、北東北のそれぞれの地方の中心都市の近郊に生まれ、啄木は盛岡中学、太宰は青森中学で文学に目覚め、身を立てようとした。啄木は晩年、太宰は若い頃に左翼思想に共感し、東京で挫折した。啄木は渋民、太宰は津軽を思い続ける望郷の文学を残したことは共通している。最も違う点は、啄木は経済的に裕福でない家のひとりの男子として大切にされ、太宰は富豪の家の六男、津軽の言葉でオズカスとして育てられたこと」と話す。二人の文芸批評上、示唆に富む。
  • この他、太宰は「ヴィヨンの妻」で「石川啄木という大天才」と、「津軽」で「東海の小島」の歌を引き、オマージュとしている。

(2018-01-16 盛岡タイムス)


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