〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

 「生きがい」よりも「死にがい」が強制された青春 岩城之徳 <1>

[北海道函館市立待岬 啄木一族墓 「碑文」拓本]


『国文学 解釈と鑑賞』特集─石川啄木の世界─
   1974年(昭和49)5月号 第494号 至文堂


◎私の卒業論文  岩城之徳
 「石川啄木の伝記的研究」

  • 最近青春の生きがいという言葉が流行しているが、私ども戦中派の人間にとつては青春は暗く灰色の毎日であつた。「生きがい」よりも「死にがい」が強制され、学徒出陣の美名のもとに軍隊に戦場に非人間的な生活をよぎなくされた。
  • 学徒出陣とは昭和18年9月22日の法文系大学教育の停止および学生徴兵猶予の廃止がときの首相である東条英機によつて発表され、全国で約30万の学生が学なかばにして軍隊にはいり戦場に赴いた事件をさすのである。
  • 戦後28年たつた現在、当時の苦しい生活は国民にとつて今や忘却の彼方に押しやられつつある。しかし昭和18年12月1日強制的に軍隊に収容された学徒兵の言語に絶する苦しみと凄惨なたたかいは、日本の大学の歴史にとつて忘れることのできない不幸なできごとであつた。
  • 私たちは薄暗い兵営の一隅で鬼のような古年次兵の怒鳴り声を気にしながら、「あたら青春をわれわれはなぜこのようなみじめな思いをして暮らさなければならないか。」についてひそかに語りあつた。
  • 昭和20年8月15日の南支那での敗戦、そして武装解除、私が軍隊から解放されて東京に帰つてきたのはその半年後のことである。私はいち早く神田にかけつけて焼け残つた懐かしの母校に復学の手続きをとつた。
  • 敗戦ですべてを失つた私にとつて日本大学は残された唯一の希望であつた。死への恐怖を逃れて再び学問をする機会を得た私は、にがい青春を通じて体験した世の中の不条理、青年を追いつめる一切の不条理を人間社会から除去しなければならぬと考えた。私が国文学を専攻し、文学を通して人間の本当の生き方を求めたのもそのためである。


(つづく)