〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 <7>

啄木文学散歩・もくじ


7 錦木塚歴史公園 啄木は伝説を聞き作品をつくる


「錦木塚歴史公園」の広い敷地を区切るこの門が「錦木塚」への入口

錦木塚伝説

今から千数百年前のこと、錦木のあたりに政子姫という娘がいた。錦木を売る若者が政子姫を見て心の底から好きになってしまった。毎日毎日、男は求婚のしるしの錦木を姫の門の前へ立てた。若者は雨の降る日も風の吹く日も、雪の降る日も一日も休まず錦木を立てた。しかしあと一束で千束になるという日、体がすっかり弱っていたため門の前に降りつもった雪の中に倒れて死んでしまった。姫もその二、三日後、あとを追うように死んだ。姫の父は二人をたいそう哀れに思い、千束の錦木といっしょに一つの墓へ夫婦としてほうむった。その墓のことを錦木塚という。
鹿角市発行「鹿角市史」)


 

左に「錦木塚伝説」の掲示板・右奥の石囲いが「錦木塚」
 

◉1901(明治34)年7月下旬、啄木は友人たちと秋田県鹿角地方へ旅行した。このことからいくつかの作品が生まれた。


◎盛岡中学校校友会雑誌3月号(第3号)明治35.3.24
 にしき木 <短歌>二首

◎「明星」 1904(明治37)年2月号
 錦木塚 <詩>
(一) 槇原に夕草床布きまろびて
(二) 長の子の歌  わが恋は、波路遠く丹曽保船の
(三) 政子の歌   さにずらひ機ながせる雲の影も

◎詩集『あこがれ』1905(明治38)年5月3日
 錦木塚<古伝承に取材>昔みちのくの鹿角の郡に女ありけり
 にしき木の巻        槇原に夕草床布きまろびて
 のろひ矢の巻(長の子の歌) わが恋は、波路遠く丹曽保船の
 梭の音の巻(政子の歌)   さにずらひ機ながせる雲の影も

◎「明星」 1906(明治39)年1月号
 「鹿角の国を憶ふ歌」 <詩> 青垣山を繞らせる 天さかる鹿角の国をしのぶれば

◎『紅苜蓿』 1907(明治40)年2月号
 「鹿角の國を憶ふ歌」 <詩> 青垣山を繞らせる 天さかる鹿角の国をしのぶれば







「錦木塚伝説」の掲示


◎盛岡中学校校友会雑誌3月号(第3号)明治35.3.24

 にしき木 <短歌>二首
  夕雲に丹摺はあせぬ湖ちかき草舎くさはら人しづかなり
  甍射る春のひかりの立ちかへり市のみ寺に小鳩むれとぶ    
                   白蘋(はくひん)     
  (丹摺=にずり、草舎=くさや、甍=いらか)

◎「明星」 1904(明治37)年2月号

錦木塚

(一)
槇原に夕草床布きまろびて
淡日影旅の額に射し来る丘、
千秋古る吐息なしてい湧く風に
ま白雲遠つ昔の夢と浮び
彩もなき細布ひく天の極み、
あゝ今か、浩蕩なる蒼扉つぶれ
愁知る神立たすや、日もかくろひ、
その命令の音なき声ひゞき渡り、
枯枝のむせび深く胸を憾れば、
窈冥霧我が瞳をうち塞ぎて、
身をめぐるまぼろし、そは百代遠き
辺つ国の古事なれ。こゝ錦木塚。
(後略)


(二)長の子の歌
わが恋は、波路遠く丹曽保船の
みやこ路にかへり行くを送る旅人が
袖かみて荒磯浦に泣きまろぶ
夕ざれの深息にしたぐへんかも。
夢のごと影きえては胸しなへて、
あこがるゝ力の、はた泡と失せぬ。
(後略)


(三)政子の歌
さにずらひ機流せる雲の影も
夕暗にかくれ行きぬ。吾が希望も
深黒み波沈まる淵の底に
泥の如、また浮き来ずほろび行きぬ。
(後略)


≪未完≫
秋田県鹿角郡、花輪より小坂に至る途上、毛馬内の南十町許にして路傍に錦木塚あり。悲愁鎮魂の伝説今に伝はりて、心ある旅人の幾世かこゝに涙を濺ぎけん。我十六歳の年友とこの古跡を探りて、故老の情けに古記を抄録し帰りける者、今猶蔵して篋底にあり。この吟をなしえたる、それ或は多少の縁あるか。
此詩、五六六を一句とする新調の試作なり。識者の高誨を待つ。)
石川啄木全集 第二巻 筑摩書房 昭和59年)









錦木塚の石柱 後ろの石囲いが「錦木塚」

◎詩集『あこがれ』1905(明治38)年5月3日

錦木塚

(昔みちのくの鹿角の郡に女ありけり。よしある家の流れなればか、かかる辺つ国はもとより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。日毎に細布織る梭の音にもまさりて、政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。隣の村長が子いつしかみそめていといたう恋しにけるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人のいましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。長の子ところの習はしのままに、女の門に錦木を立つる事千束に及びぬ。ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いかなる女もさからひえずとなり、やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ様も見えず。男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。政子も今は思ひえたえずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。村人共二人のむくろを引き上げて、つま恋ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのことのみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りて、にしき木塚となむ呼び伝へける。花輪の里より毛馬内への路すがら、今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の柵など結ひたるを見るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりけり。伝へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奥の細布と云ふもの、政子が織り出しけるを初めなりとかや。)


  にしき木の巻        槇原に夕草床布きまろびて(後略)
  のろひ矢の巻(長の子の歌) わが恋は、波路遠く丹曽保船の(後略)
  梭の音の巻(政子の歌)   さにずらひ機ながせる雲の影も(後略)
 

(甲辰の年一月十六、十七、十八日稿。この詩もと前後六章、二人の死後政子の父の述懐と、葬りの日の歌と、天上のめぐり合ひの歌とを添ふべかりしが、筆を措きしよりこゝ一歳、興会再び捉へ難きがまゝに、乍遺憾前記三章のみをこの集に輯む。)


石川啄木全集 第二巻 筑摩書房 昭和59年)

〈音読・現代語訳「あこがれ」石川啄木〉17 望月善次

〔現代語訳〕
錦木塚(にしきぎづか)全4回の1:前文
〔昔、陸奥の鹿野に女性がおりました。由緒ある家筋であることもあり、その辺りの国はもとより、都にもいない程の優れた容姿でありました。毎日織っている(その地方名産の)「細布(ほそぬの、幅の狭い布)」を織る際の「梭(オサ)」の音にも勝って政子という名は、色々なところで高かったのです。隣村の長(おさ)の息子が、いつか見初めて、強く強く恋したのですが、女性の方は、気持ちが無かったわけではなかったのですが、由緒ある家でしたので、父親のガードも堅く、気にかけながら過ごしておりました。……〕(2010-09-09 盛岡タイムス)




千束の錦木といっしょに夫婦として一つの墓に葬る


近世ではこの地は「歌枕の地」とされており、菅江真澄や古川古松軒および松浦武四郎がそれを記録しているほか、幕府巡見使がここに巡見所を設け、地元民に塚の縁起を聞き、細布の献上をしている。石川啄木金田一京助から錦木塚の伝説を聞き、この地に足を運び、「鹿角の国を懐う歌」をつくり歌っている。また、長詩「錦木塚」を雑誌明星に発表している。

塚は現在小公園の隅にあり、菅江真澄が犬の伏せた形と表現した大きな置き石がある。
ウィキペディア「錦木塚」)








公園の周囲はニシキギの垣根

錦木塚のあるこの地は、古歌に詠み込んだ名所「歌枕の里」として末の松山や象潟と並ぶ多くの歌人たちの憧れの場所でした。菅江真澄の遊覧記「けふのせば布」の中で錦木として5種類の木が出てきますが、この公園にはこれらを中心に植栽しています。


①楓の木(ハウチワカエデ)
②まきの木(マユミ)
③酸の木(ヌルデ)
④かばざくら(オオヤマザクラ
⑤苦木(ニガキ)




ニシキギ


幾種類ものニシキギが枝を伸ばし葉を広げている。

秋深くなれば、この錦の葉がいっそう鮮やかになることだろう。




(つづく)