〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑧ 両親)


[ユズリハ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑧ 両親
  住職罷免で一家暗転

  • 啄木の父一禎(いってい)は、農家の5男として生まれたが、5歳で曹洞宗大泉院に預けられ、そこで得度した。同寺院の住職、葛原対月(かつらはらたいげつ)から和歌の指導も受けた。盛岡の龍谷寺に赴任した対月を慕い、一禎も付いていく。そこに家事手伝いで来ていたのが対月の妹の工藤カツ。2人は結ばれるが、僧籍にある者の慣習から入籍はしなかった。
  • 25歳の一禎は1875(明治8)年、28歳のカツを伴って南岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区)の常光寺住職となる。長女サタ、次女トラ、1886(明治19)年に待望の男児である長男一(はじめ = 啄木)が生まれる。翌年、一禎が隣の渋民村の宝徳寺住職となり、そこで啄木は伸び伸びと育った。啄木が6歳の時にカツは入籍、啄木も石川姓となった。
  • 1904(明治37)年、一家の運命は暗転する。宗費を滞納したことから一禎が宝徳寺住職を罷免されたのだ。啄木は1906年から渋民尋常高等小学校で代用教員をしながら父の住職復帰に奔走するが実らず、ストライキを起こして免職となった。一家離散となり啄木は北海道を漂泊した後に上京することとなる。
  • 一家の生活は啄木の肩にのしかかった。食いぶちを減らすために一禎はしばしば家出する。一方、カツは啄木を溺愛し、行く先々へと付いていこうとする。
  • 母の死の約1ヶ月後(1912年)に亡くなった啄木は臨終間際、一禎に向かい「すまないけれどもかせいで下さい」と言ったという。トラに引き取られていた一禎は1927年、高知の地で亡くなった。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-02-24 岩手日報

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