〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報 (④ 識者に聞く)


[ヒサカキ]


「啄木 賢治の肖像」

 ④ 識者に聞く  石川啄木記念館長・森 義真 さん
  三つの時期 古里意識

◎啄木はどのような子どもだったか。

  • 父37歳、母40歳で生まれた初めての男の子。とてもかわいがられ、わがままし放題だった。頭がよくて村では『神童』と呼ばれていた。おでこが広いことから『でんびこ(おでこ)』とあだ名され、みんなからかわいがられた。

◎啄木にとっての古里渋民はどのような存在か。

  • 啄木が古里を意識した三つの時期がある。
    • 1 盛岡中学校(現盛岡一高)を退学し上京したが挫折して帰ってきた1903(明治36)年2月〜1904年10月。啄木が病気を癒やしながら、住んでいた宝徳寺、境内の林などを散策しながら詩想を練っていた期間。
    • 2 1906年3月〜1907年4月。渋民尋常高等小学校の代用教員時代。宝徳寺を追われた父一禎の復帰運動をしていた。賛成派には好意をもたれたが、反対派にはあざけられ、ののしられた。
    • 3 北海道から東京へ行った1907年4月以降。二度と帰れない古里との自然を懐かしむしかなかった時期。

◎盛岡中学退学が啄木に与えた影響は。

    • 最も大きいのは学歴社会の中で落伍者としてその後の人生を歩まなければならなかったこと。一方、東京に行ったおかげで与謝野鉄幹、晶子夫妻と出会い交流できたというプラス面もある。ふるさとで詩想をめぐらせたことで、後の詩集『あこがれ』の出版にもつながった。


(2016-01-27 岩手日報
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