〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報 (③ 少年・青春時代(下))


[ハマゴウプルプレア]


「啄木 賢治の肖像」

 ③ 少年・青春時代(下)
  東京生活 大きな挫折

  • ローマ字日記」を書いたり、評論や書簡に英単語を多用した啄木は盛岡中学校時代、自主的に会を組織し、英語を勉強していた。グループの名前は「ユニオン会」。毎週土曜の夜にそれぞれの家に順番に集まり、当番が訳読して質疑応答する。仲間とともに英語力を高めていった。
  • 英語の後には最近読んだ新聞雑誌や単行本の感想を披露していた。青年らしいみずみずしい感性で語り合っていたのだろう。
  • この時代の啄木は、自由でおおらかな雰囲気の中、文学にも力を入れ、後に妻となる堀合節子との恋愛にものめり込んだ。学校の成績は落ち、4年終了時には119人中82番だった。5年に進級しても欠席が相次ぎ、カンニングけん責処分を受け、10月に退学届けを提出、上京。短歌が掲載された「明星」を発行する東京新詩社の会合に参加し、与謝野鉄幹、晶子夫妻に初めて会う。
  • しかし、中学編入や就職などに失敗し、1903(明治36)年、父一禎につれられ渋民へ帰郷した。
  • 啄木は17歳で大きな挫折を味わう。この時のことを後に詩人、野口米次郎宛ての手紙で「他人が五十年もかゝつて初めて知る深酷な人生の苦痛を、鋭く胸に刻みつけられた」と打ち明けている。

(③ 少年・青春時代(下))

(2016-01-20 岩手日報
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