青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-1
常光寺
常光寺は、啄木の父・一禎ゆかりの寺である。
野辺地駅より北東1.5kmほどのところにあり、後に紹介する愛宕公園に近い。
ここ野辺地に「父一禎は約三年間逗留し、啄木は三度、延べにして三十時間余滞在」(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著 青森県文芸協会発行)した。
- 伯父葛原対月(かつらはら たいげつ)は、1826年(文政9)生まれ。啄木の母カツの兄。盛岡市に生まれる。武術を学び、和漢の書を修め、和歌や書道を能くし、多才の人。1854年、仏門に帰依。1895年(明治28)青森県野辺地常光寺住職となる。1910年、盛岡市に移り、85歳でこの世を去った。(「石川啄木事典」おうふう)
本堂へ向かう道
父一禎の生い立ち
一禎の出生の不条理
- 一禎は「罪の子」(一禎の母ゑつが「夫以外の男性との不倫によって身籠った子)と考えられる。
一禎は一般的両親、或いは肉親からの温かい愛情とは無縁である。
一禎は産まれてくる必要がなかった。そのため生後四年間は養子に出され、戻され、お寺へ預けられ、の転変である。一禎の養育に主にあたったのは寺の関係者である。
一禎は幼児期に三度も家から放り投げられている。四度目に放り投げられないためにはお寺の方針に従順に従うしかない。人格形成に当たって反抗期とか自我の確立などとは縁がなかったであろうことが考えられる。自分の考えを持てない、ただ環境に流されて行くだけの人間になって行くしかなかった。
『石川啄木 若者へのメッセージ』西脇 巽著 桜出版
- 一禎は9歳で得度する。1866年、葛原対月が大泉院十七世住職として赴任したとき、その寺にいた一禎と出会う。1871年(明治4)、対月が盛岡龍谷寺住職となり、一禎は対月を慕い龍谷寺の役僧となる。一禎はここで対月の妹工藤カツ(啄木の母)と結婚する。
(つづく)
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