〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その6>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-2

常光寺境内にある「銘馬御座碑」


六地蔵の祀られているお堂の隣に、背の高い形の変わった碑があった。それが「銘馬御座碑」である。

「高さ七尺五寸、横四尺五寸、大字八行の銘があり字形奇偉筆力確健である。(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)」と紹介されている。

「常光精舎記」

「常光精舎記」について、川崎むつをは『石川啄木青森県歌人』の中で、次のように記している。

  • 修行熱心な一禎は、明治十二年、諸国行脚の途中、青森県野辺地町の兄弟寺常光寺に鞋を脱いだ。そのとき、住職の中原哲州は、名僧葛原対月の愛弟子で、学僧として知られている一禎に次のことを頼んだ。
  • 明治九年、天皇巡幸のときに、名馬「花鳥」が野辺地町で斃れ、常光寺に埋葬された。二年後に、宮内省から馬の冥福をいのる石碑が送られ、馬の墓のわきに立てられた。その碑を、後日忘れないように文章を書いて貰いたい。

石川家に残っている「常光精舎記」という断簡がそれであろうと私は思っている。

(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)





「銘馬御座碑」

常光精舎記

常光寺在陸奥国上北郡野辺地駅西距青森十一里、七戸之北五里(略)
(常光寺は陸奥の国上北郡野辺地駅に在り、西は青森を距ること十一里、七戸の北五里(略))


庭中則有泉有老樹有墳墓而座御馬碑有焉住僧中原哲州師憂其之碑之由来湮没於後世請余記(略)
(庭中に泉有り、老樹有り、墳墓あり、御馬をうめた碑がある。住職中原哲州師はその碑の由来が後世湮没するを憂い余に記することを請う。(略))

(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)





境内の地蔵様

第五日本海丸遭難者供養のため建立
常光寺境内に地蔵様の立像がある。明治42年(1909)、青森県平内町で第五日本海丸が火災を起こして沈没し漁夫228名が溺死し、その供養のために建立されたもの。
この第五日本海丸遭難者合同慰霊祭は、葛原対月と弟子である一禎らが野辺地常光寺で執行した葬儀となる。
一禎にとって、野辺地での生活は一禎様と呼ばれ平穏な日々であったが、遭難者引き揚げに立ち会った一禎の胸には、世の無常が痛く刻みこまれ、寂しく対月和尚と共に野辺地を後にした。

(『啄木の父 一禎と野辺地町』 高松鉄嗣郎著)

   かなしきは我が父!
    今日も新聞を読みあきて、
    庭に小蟻と遊べり。
             (『悲しき玩具』石川啄木

息子啄木が父を見ると、何もすることがなく蟻と遊んでいる。やるせない息子の心。このあとすぐに一禎は家出をする。


   その親にも、
    親の親にも似るなかれ──
   かく汝が父は思へるぞ、子よ。

             (『悲しき玩具』石川啄木

父啄木は娘京子に「親に似るな」と言う。“親に似るな” だけでなく「親の親にも似るなかれ──」と詠う。父に似る自分を知っていたのだろうか。
啄木が一禎ほど生きれば、父をおもう子のこころはきっと違っていたのに。



一禎の生涯のなかで忘れられない輝かしい時代は、野辺地にもあったと感ずる。



(つづく)
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