『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて
渋川玄耳が入学した小学校を訪ねて、佐賀県武雄市西川登町小田志(ニシカワノボリチョウ コタジ)に行く。墓所から南方向(直線10数kmほど)のところ。
八坂神社への階段。右には窯の煙突が見える。玄耳の祖先も窯焼きだった。
静かな小田志集落の道を折れ、階段を上る。
武雄のやきものは、文録・慶長の役の時、武雄領主に同行した陶工たちによって焼き始められた。現在市内には80数ヶ所の窯元がある。(武雄市観光協会HP)
八坂神社。
始めの階段を上ると鳥居があり、次の階段の上に八坂神社が見える。
鳥居から北東にある「小田志小学校跡」と思われる広場。
右手前の太い影は、八坂神社の鳥居。
近くの方にお聞きしたら、「確かに、昔ここに小学校があった」とのこと。「小田志小学校」は、合併、移転などをして現在は「西川登小学校」となっている。
- 渋川玄耳は、明治8年、7歳で西川登小学校(注)に入学した。「時の文部少輔九鬼隆一が同校を視察、玄耳の英才ぶりに驚き特別表彰を行った。玄耳が、その栄誉に歓喜してますます向学心に燃えたことは言うまでもない。」
(注:西川登小学校 開校当時は小田志小学校)
- 「玄耳が入所した当時、朝日歌壇は歌風があまりに陳腐なために、玄耳はそれを廃止していた。彼はその歌壇を復活して選者に全く無名の啄木をあてたのである。そして一切合切を啄木にまかせた。啄木は水を得た魚のように、文芸欄に歌論を載せ評論を書いた。そして、後世に不朽の名を残す『一握の砂』を出版することになる。玄耳は薮野椋十の名で序文を書いた。」
- 「わずか三年の間に啄木は世に出たのである。そのきっかけを作ったのは渋川社会部長その人だったと言わざるを得ない」
(つづく)
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