『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて
墓所近くの風景。
- (渋川が)法務官から新聞記者への転身話がまとまったのは、明治三十九年の末ごろで、渋川は三十六歳であった。
- 玄耳が朝日を退社したのは、大正元年十一月、四十一歳だったから、在社はわずか五年余にすぎない。
- 玄耳が大正二年至誠堂から出版した『一萬金』という本の序文である。「予が新聞記者に為ったのは愚であった。羅(や)めたのは更に愚であった。本書は辞職当日より一家離散に至る十数日間の日記である。此の様な日記をつけるのも愚だし、之を出版するのは愈(いよいよ)愚である。其の内容に至っては、愚中の至愚である。……」
- 『山東に在り』は、玄耳が中国の青島にいたころの自選歌集。与謝野寛はこの歌集をたたえ、「かの奇才玄耳ひとりを容れかねて旅にあらしむ小さき日の本」と詠んだことが、後藤是山という人の『玄耳句集』の「序にかへて」に記されている。
玄耳の遺言にある「黒髪山」。
左側の雲が湧き出ているように見える山が、黒髪山(516m)。
中央の二つの岩は夫婦岩(左が雌岩・右が雄岩)。
右に青螺山(618m)
(玄耳)本人は「山内町筒江で生まれ、小田志で成長した」と書き残しており、筒江に思い入れが深かったとみられる。墓は遺言で黒髪山を仰ぐ筒江に東京から移された。(2014年5月28日 佐賀新聞)
法名は「清厳院松韻玄耳居士」と刻まれている。(『ふるさとの歴史散歩 武雄』武雄歴史研究会編 平成19年発行)
かの奇才玄耳ひとりを容れかねて旅にあらしむ小さき日の本
与謝野鉄幹
(つづく)
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