〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い息づかいに触れてみたい

「知らない !? おどろいた。啄木も知らないの。」 『しろばんば』


[カゴノキ]


《作品に登場する啄木》
  しろばんば
    井上靖 著 新潮文庫、2004年
 
五章


その間に、蘭子は啄木の歌を知っているかときいた。そんな人の名まえは、もちろん、洪作にははじめてのものだった。
「知らないな。」
「まあ、知らない !? おどろいた。啄木も知らないの。田舎の小学校ってだめね。」
「教わらんよ。」
「教わらなくても、啄木ぐらい、街の子はみんな知ってるわ。ーー有名な歌人じゃない !?」
「知らん。」
洪作は少しむっとして答えた。



松林をぬけると海が見えた。白い波頭が海面いっぱいにひろがっている。
「啄木の歌をうたってあげましょうか。」
蘭子はいった。そして洪作が返事をする前に、彼女の口からは歌声が流れた。ひどく細い調子の高い声だった。歌声はひとつひとつ、蘭子の口から出ると、風にうばわれて背後へと飛んで行った。洪作はそれに耳をかたむけた。歌の文句がいかなるものかわからなかったが、その調子には、洪作の心を強く魅するものがあった。
「学校で教えるの?」
洪作がきくと、
「教えるもんですか。恋の歌なんてうたうとしかられるわ。」
「恋の歌?」
「そうよ。初恋の歌。」
恋ということばも、初恋ということばも、他人から口に出していわれたのは、洪作にははじめてのことだった。はじめてであったが、それがどういうものであるかは、洪作にはわかっていた。
蘭子はつぎつぎに歌をうたった。どれも啄木の歌であった。


(つづく)