〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

野口雨情の住んでいた家 宇都宮市<その 1 >

啄木文学散歩・もくじ


石川啄木と野口雨情
1907年(明治40)21歳の石川啄木は25歳の野口雨情と、北海道「小樽日報」の創業時に記者として出会う。
啄木の日記によれば、知り合って十日目「野口君と予との交情は既に十年の友の如し」。「共に豚汁を啜」り、「同じ床の中に雑魚寝」をし、互いの「身の上話」をする仲だった。しかし、互いの友情はすぐに終わりを告げた。
野口雨情生家・資料館(茨城県北茨城市磯原町)にある年譜には、「明治40年(1907)10月、25歳の雨情は石川啄木と共に『小樽日報』の創業に加わるが、約1ヶ月で退社」と書かれてあった。


雨情が亡くなる前、ちょうど一年間住んだ家が宇都宮にある。



野口雨情旧居

左は和菓子屋、右が「野口雨情旧居」(国の登録有形文化財)。鹿沼街道沿いにあり、カワチ薬局三の沢店のそば、「和菓子処 乙女屋」の敷地内。雨情はこの家に住んでいた。



ガラス戸から座敷を見る

縁側には家族との写真や、木更津証城寺にて、昭和2年大阪放送局にて、などの写真が飾られている。



裏手から旧居を見る
雨情は、1882年(明治15)5月29日、現北茨城市に生まれる。
雨降りお月(さん)、あの町この町、青い眼の人形、赤い靴、兎のダンス、蛙の夜廻り、かもめ、証城寺の狸囃子、シャボン玉、十五夜お月さん、七つの子、波浮の港、船頭小唄、南部音頭、岩手小唄、…など親しまれるたくさんの作詞をした。地域の民謡や校歌などの作詞も数多くある。



この家での日々と作詞した歌などについての説明板

1944年(昭和19)1月、61歳の雨情は、東京の空襲が激しくなったため、再婚したつるの紹介で栃木県河内郡姿川村鶴田1444番地(現宇都宮市鶴田町)のこの家に疎開した。つると共に果樹、養鶏を楽しむが病に倒れた。

(つづく)